現在、この本を読んでいます。

 

 

最新研究における、日本の古代史、と、言う内容のようで、読み始めたばかりですが、面白いことがいくつか。

その中で、「倭国大乱」について。

 

中国の歴史書「魏志倭人伝」には、二世紀後半、倭国では、長く戦乱が続いていたことが記されている。

いわゆる「倭国大乱」です。

本格的に、農耕稲作が始まった弥生時代には、戦乱によって傷つき、亡くなったと見られる遺骨が、多く、発掘されるようになります。

これは、やはり、農耕稲作を行うには、大きな集団として存在をすることが有利で、そこから「国」というものが形成されるようになるのでしょう。

そして、「国」は、大きければ、大きいほど、何をするにも有利で、また、他国の富を奪うことが出来れば、自身で生産をするよりも、楽に、豊かになれる。

そういった様々な思惑から、弥生時代には「国」が誕生し、その「国」たちが争う、戦乱の時代となったのでしょう。

 

さて、現在、「酸素同位体比年輪年代法」という、遺跡の年代特定法が、研究、開発されているそうです。

酸素同位体比は、天候や湿度の変化に影響を受けるそうで、この酸素同位体比を調べると、過去の気候の変化が分かるそう。

現在では、過去、2600年分の樹木に含まれる酸素同位体の割合が測定されていて、つまり、過去、2600年分の気候変動の推移の様子が分かっている。

そして、この、気候変動のデーターを見ると、「倭国大乱」が起きた、二世紀には、他の時代とは、全く、異なる、激しい気候変動が起こっていたことが分かるそうです。

 

この紀元二世紀には、数十年くらいで、激しい気候変動が起こっている。

特に、降水量が、かなり増大をしているそうで、特に、紀元127年は、過去、2600年で、最も、降水量の多い年だったことが分かっている。

つまり、この頃、とんでもない豪雨が、度々、降り続いたということなのでしょう。

 

当然、作物は、十分に、育たず、人々は、飢餓に苦しむことになる。

また、豪雨によって洪水が起こり、それまで住んでいた土地を失い、難民になる人も多かったでしょう。

 

このため、倭国では、各地で戦乱が起こり、その中で、強い力を持ち、周辺値域を平定して行く勢力が「国」を形成して行った。

そして、その「国」たちが、周辺の「国」たちと、生き残りをかけて、大きな戦乱を起すことになる。

これが「倭国大乱」と、考えられる。

 

さて、この「倭国大乱」が起こった倭国の事情は、こういった経緯で、推測をすることが出来る。

しかし、問題は、ここから。

 

この「倭国大乱」の中で、「卑弥呼」という女性が、擁立されることになる。

そして、この「卑弥呼」による支配で、「倭国大乱」は、終結をすることになる。

 

大きな疑問、その一は、「なぜ、卑弥呼が、王として擁立されることになったのか」ということ。

 

そして、もう一つの疑問は、「なぜ、卑弥呼は、倭国大乱を終結させ、安定した国を作ることが出来たのか」ということ。

 

ここからは、本の内容を離れ、勝手に、個人的な推測を述べたいと思います。

 

まずは、「卑弥呼」という人物について。

 

卑弥呼が「鬼道」というものを使ったのは、「魏志倭人伝」にも書かれている。

この「鬼道」は、当時、中国で、「道教」のことを「鬼道」と呼ぶこともあったそうですが、個人的には、中国の道教と、卑弥呼の鬼道とは、別物だったのではないかと思うところ。

卑弥呼の鬼道は、恐らく、「呪術」のようなもので、当時の倭国の社会には、この鬼道を行う女性は、各地に存在をしていたのではないでしょうか。

そして、この鬼道を使う女性で、卑弥呼は、最も、高名な人物だったと思われる。

 

恐らく、卑弥呼の鬼道は、周辺地域の人たちに、広く、信者を獲得し、その中には、恐らく、「国」の指導者クラスの人たちも居たのではないでしょうか。

そして、彼らの意見で、卑弥呼を頂点に据えることで、無駄な戦争は防ごうという考えが生まれた。

 

もしかすると、卑弥呼の方から、逆に、「戦乱を止めなければ、世界は滅亡する」という予言でも出したのかも知れない。

当時、鬼道は、荒唐無稽なものではなく、実際に、非常な影響力を持つものだったはずで、多くの人が、卑弥呼の言葉を信じた。

そして、卑弥呼の言葉を信じる、多くの人たちが、戦乱を止めるように動き出し、「国」の指導者たちは、それに従わざるを得ない状況になってしまった。

と、言う経緯で、邪馬台国は、成立をしたのかも知れない。

 

つまり、卑弥呼は、鬼道の力で、「王」となり、「倭国大乱」を、鬼道の力で、終わらせたということ。

 

さて、本の内容に戻ります。

 

さて、「倭国大乱」の中で、戦いに疲れた「国」の多くは、このまま、敵対を続けるのではなく「連合政権」を作ることで、共存をする道を模索することになる。

そこで、白刃の矢が立ったのが、卑弥呼という女性です。

つまり、卑弥呼を「王」にして、「邪馬台国連合」を作ることで、戦乱を止め、共存の道を進むことにした。

 

そして、この「邪馬台国連合」の主導権を取ったのは、どこの「国」なのか。

 

候補として「伊都国」の存在が、挙がっているそうですね。

どうも、邪馬台国連合の国々の中で、伊都国は、かなり、特別な地位を占める存在だったらしいということ。

この伊都国には、「太陽信仰」があり、墓の中に豪華な副葬品を入れるという習慣もあったよう。

また、「魏志倭人伝」の中にも、邪馬台国連合の中で、伊都国が、特別な地位にあったことが記されている。

 

そして、この伊都国を中心とした勢力が、畿内に移動し、あの「纏向遺跡」を作ったと考える研究者も居るそうです。

 

もちろん、元々、畿内に居た勢力が、邪馬台国を作ったという説を唱える人も居る。

 

この場合、奈良盆地の中央にある「唐古・鍵遺跡」に居た勢力が、中心となったと考えられるそう。

この「唐古・鍵遺跡」は、弥生時代後期、畿内最大の集落遺跡。

全国的に見ても、最大級の遺跡だそう。

この遺跡を中心として勢力は、「銅鐸」を製造し、周辺値域に配布をすることで、影響力を拡大して行ったようです。

 

また、「中心となった勢力は居ない」と、考える研究者も居るそうです。

 

伊都国を中心とした北九州の勢力、吉備の勢力などが、共同し、纏向に都を作ったと考える研究者も居る。

纏向遺跡からの発掘品を見ていると、様々な地域の人たちが、この纏向に集まり、生活をしていたことが分かる。

また、纏向は、突然、その土地に生まれた大都市で、人工的に作られた街だということも分かっている。

 

さて、「邪馬台国」についての考察は、今後も、延々と続くのでしょう。

決定的な証拠は、出て来ないものと思います。