近年、世界の情勢は、大きく混乱をしていますよね。
そして、各地で、戦争が起こり、そして、戦争の危機が叫ばれている。
先ほど、投票が終わった参議院議員の選挙で、参政党が、大きく、議席を伸ばしたのも、その影響でしょう。
世界各国で、「自国ファースト」を唱え、自分の都合の良いことばかりを(嘘や、根拠の無い情報も含めて)発信する政治家たちが、支持を集めるようになっている。
かつて、日本は、どのようにして、あの壊滅的な被害を受ける戦争に突き進んだのか。
その経緯を、この本から。
日本が、壊滅的状況に至る戦争に向かう、そもそものきっかけは、やはり「満州」に関する問題です。
中国の北東部にある「満州」は、日本が、日露戦争で勝利をした結果、ロシアから得た権益です。
「二十億の資材と二十万の精霊」
という言葉があり、これだけ、多くの犠牲を払って獲得をした権益なのだから、この権益を守らなければならないという考えがあり、関東軍は、この権益を、一生懸命、守っているのだと訴え、国民は、それを信じていました。
そして、松岡洋右は、「満州は、日本の生命線」と名付けます。
日本は、狭い国土の貧しい国で、満州への進出は、日本の生存権の拡大だと主張し、財界、経済界もまた、軍を支援することになる。
ちなみに、中国での戦争で、先導的な役割を果たす「関東軍」は、そもそも、ロシアから得た権益の一つ、満州鉄道の安全を守るために設置された警備兵が、その前進だそうです。
昭和6年(1931)9月18日、中国東北部の柳条湖で、日本が経営する南満州鉄道の線路が、何者かによって爆破されます。これが「柳条湖事件」です。しかし、この線路の爆破は、関東軍による自作自演でした。
関東軍は、これを中国軍によるものだとして、武力侵攻を開始。日本政府は「不拡大」の方針でしたが、朝鮮駐留軍は、独断で越境して満州に侵攻。五ヶ月で、ほぼ、満州全土を占領します。これが「満州事変」です。
昭和7年(1932)、満州国が独立。日本は「満州国は、民族自決によって生まれた」と主張しましたが、実際は、行政、軍事を、関東軍が握る、傀儡国家でした。
この「満州事変」に関しては、日本政府だけでなく、天皇、そして、東京の陸軍参謀本部もまた「不拡大」の命令を出しています。しかし、関東軍は、それを聞かなかった。
これは「統帥権干犯」に当たりますが、関東軍は、処分を受けなかった。
やはり、満州での権益の拡大という思惑が、様々な人の中にあり、結局のところ、政府も、軍も、この関東軍の行動に乗っかってしまう。
実は、天皇は、「大元帥」といっても、最終的に、政府、軍の決めたことには、逆らうことは出来なかったそうです。
また、この関東軍の行動には、国民の支持もありました。
当時、日本国内は、不況の真っ只中。
上流階級は、庶民の批判の対象となり、満州での権益を拡大する関東軍の行動が、自分たちを救ってくれるという国民の期待があったそうです。
また、新聞、ラジオといったマスメディアが、国民感情を煽りました。
メディアは、この頃から、国家の宣伝要員となって行く。そうしなければ、新聞社など、仕事をすることが出来ず、生き残ることが出来なかったという面があります。
メディアは、戦争に対する国民の熱狂を、あおり続けることになる。
日本が起した満州事変に対して、中国の蒋介石政府は、国際連盟に提訴します。
そして、国際連盟が、調査のために派遣したのが「リットン調査団」です。
実は、この「リットン調査団」の報告書は、日本にとって、それほど、悪い内容ではなかったそうです。
満州事変、満州国の建国については、強く、批判をしているそうですが、日本の中国での権益については、おおむね認めるという内容だったそう。
しかし、日本は、この報告書に強く反発をする。理由は、満州国の建国が、承認されなかったこと。新聞もまた、この報告書を強く批判し、国民感情を煽る。
当時、満州事変のきっかけになった柳条湖事件が、関東軍の自作自演だったということは、当然、国民には知らされていない。また、満州国は、民俗自決によって建国されたと、国民は信じていた。また、新聞では、報告書が、中国に有利なものだと報道されていた。国民が、「リットン調査団」の報告書に、反発をするのは当然でしょう。
この国際連盟で満州問題が話し合われている最中、関東軍は、中国の東北部の熱河省に侵攻します。この時、総理大臣の斉藤実は、天皇に裁可の取り消しを求め、天皇もそれに同意しますが、側近や元老らは、これに反対。作戦は継続される。
なぜ、この「熱河作戦」が行われたのか。
関東軍の考えとしては、満州国は、すでに建国している。そして、熱河省は、満州国の一部で、新たな軍事行動とは思っていなかったということ。
しかし、国際連盟では、日本軍の新たな軍事行動に対して、経済制裁で応じることにする。
この国際連盟の動きを知った日本では、天皇が、裁可を取り消したいと告げますが、すでに軍が動いているので、取り消しは出来ないと言われてしまう。
なぜ、このような判断になってしまったのか。
それには、やはり、軍の行動に対する国民の支持がありました。天皇の側近たちは、天皇の判断によって軍の侵攻を止めることで、国民からの批判が沸き起こることを恐れた。
昭和8年(1933)2月、国際連盟の総会で、満州国を認めず、日本の撤退を求める決議案が採択される。反対票を投じたのは、日本だけ。
日本は、国際連盟からの脱退を選択します。
実は、当時、政府には、国際連盟の脱退の意思は無かったのではないかということ。
そして、日本の国際連盟からの脱退を強く主張したのは、新聞です。
結局、新聞に煽られた世論の後押しもあり、日本は、国際連盟から脱退をする訳ですが、これは、当然、日本の国際社会からの孤立に向かわせる。
日本は、国際社会での意見の表名の場を失い、独善的な行動に向かって進むことになる。
さて、日本国内では、満州事変の翌年の昭和7年(1932)、テロ事件が、相次いでいました。
まず、右翼団体「血盟団」によって、前大蔵省の井上準之助、三井財閥の団琢磨が暗殺される。
そして、この血盟団事件に刺激を受けた人たちが起したのが「5・15事件」です。
当時の日本は、国内での大恐慌、国際的には、日本が虐げられているという認識が国民の中にあり、これは、国の指導者層の人たちが、国民と天皇の間を疎外し、邪魔をしているのが原因だと考える人たちが首相官邸を襲撃し、犬養毅総理大臣を殺害するという事件になる。
この「5・15事件」の中心になったのは、海軍の青年将校たち。同時に、陸軍士官学校の学生や、農本主義者なども参加し、彼らは、内大臣官邸や警視庁を襲撃する。
この「5・15事件」は、その後、意外な方向に進みます。
それは、実行犯たちが、裁判の中で、自分たちの主張を繰り広げ、それが、国民に、広く知れ渡り、同情を招いたということ。
つまり、今回の「テロ」を起した犯人たちは、真に国のためを思い、正義のために、今回の事件を起したと国民は認識し、全国から、彼らの助命嘆願を求める手紙が、殺到した。
つまり、「テロ」が、正当化される機運を生んでしまう。
ちなみに、大正時代に、共産主義者を取り締まるために制定された「治安維持法」が、様々な反政府的な言動を取り締まるために使われるようになって来る。
昭和8年(1933)、小林多喜二が、特別高等警察に逮捕され、拷問によって死去。
翌年に、陸軍が出したパンフレットには、「国家を無視する国際主義、個人主義、自由主義を刈り取らなければならない」と書かれているそう。
また、国定教科書の改訂により、天皇の臣民としての忠臣愛国の教育が、この頃から、徹底されて行くそうです。
この昭和8年(1933)は、日本社会が、大きく変わった年ということ。
そして、昭和11年(1936)2月26日、「2・26事件」が起きる。
この「2・26事件」は、陸軍の青年将校が、約1500人の兵士を率いて、国家改造を目指し、総理大臣官邸や、警視庁を襲撃。大蔵大臣の高橋是清を始め、内大臣、教育総監など9人が、殺害された。
実は、この一週間前、選挙があり、立憲民政党が勝利。この立憲民政党は、立憲政友会と比べると、対外侵略に消極的だったそうです。
しかし、この「2・26事件」で、国際的な協調を目指す外交や、政党政治が、完全に、潰されることになってしまった。
この「2・26事件」は、29日まで、4日間、続きますが、その間、陸軍の指導者たちは、様子見をしていたそうです。
つまり、このクーデターが、上手く行くのかどうか、様子見をしていた。
しかし、天皇が、断固、討伐をするという決意を変えなかったことで、クーデターは、鎮圧され、その中心だった青年将校たちは、処刑されることになる。
その結果、反乱の後ろ盾となっていた陸軍の「皇道派」と呼ばれるグループが、力を失うことになる。
そして、陸軍の中で、主導権を取ったのが、「新統制派」と呼ばれる人たち。
彼らは、この「2・26事件」の影響を利用しながら、陸軍の権限を拡大して行く。
一時、廃止されていた、陸海軍軍部大臣の現役武官制を復活。
陸軍省に軍務課を設置し、政府や議会に、様々な政治的発言をするようになる。
国際連盟を脱退し、世界から孤立をしていた日本は、これから、どうするのか。
日本社会の中では、「改革」「革新」が、声高に叫ばれるようになりますが、陸軍の中も、例外ではない。
そして、陸軍のエリートたちは、二つに分かれる。それが「皇道派」と「統制派」です。
この「皇道派」は、戦略的には、ソ連と決戦をすることを目的とする。日本を、ソ連と戦って、勝利をする国にするために「皇道主義」というものを唱える。
そして、「統制派」は、実は、「皇道派」以外の人たちのこと。彼らは、まずは、国内の統制を優先し、その後、中国を叩き、ソ連との決戦は、それから、と、考えていた。
この「2・26事件」では、断固討伐を主張した天皇、そして、宮中勢力が、力を持つようになる。
また、陸軍の中で、皇道派が力を失い、新統制派の人たちが、政治的な力を持ち始める。
そして、この時、「不穏文書臨時取締法」が制定され、「言論の自由」が、完全に、封じられることになる。
そして、政治家が萎縮し、議会政治が、力を失う。
いわゆる「暴力の恐怖」が。社会を覆うことになる。
国際連盟を脱退した日本は、国際社会の中で、孤立をする。
孤立をした日本は、不安、焦燥に駆られ、主観的な立場から、独善的な考えをとるようになってしまう。
そして、その間、軍人が、クーデターまがいの手法で、国家体制の変革を行うことになる。
明治維新以来、日本では、軍人が、政治に関わりやすい体制が作られていた。それが、昭和8年(1933)以降、相次いだ「テロ」による恐怖の支配が、容認される社会となって行き、それが、「ファシズム」や「超国家主義」に発展することになる。
この国家体制の変革を主導したのが「軍人」です。
軍人たちは、何を考えていたのか。
軍人は、明治15年(1882)に公布された「軍人勅諭」によって、政治に関わることが禁止されていたそうですね。
しかし、この時期、満州国の設立や、農村の恐慌、都市部の工業不況、政治家の汚職、社会の西洋化への懸念などを理由に、軍部独裁、軍事主導作戦を呼号し、この運動を「国家改造運動」として、正当化をした。
そして、軍部は、民間の右翼団体と協力し、「テロ」「クーデター」を次々と起すことになる。
そして、社会が、それを容認することにより、思想弾圧、異論の排除が行われ、日本は、「ファシズム」国家へと進んで行く。
昭和12年(1937)7月7日、中国、北京の郊外の「盧溝橋」で、日本軍と中国軍の武力衝突が起こります。「盧溝橋事件」です。
この事件をきっかけに、日本と中国は、全面戦争に突入します。これは「宣戦布告」の無い戦争です。
同年12月には、中国の首都、南京を占領しますが、中国が、戦争を継続。
そして、昭和13年(1938)1月、近衛内閣は「国民政府を相手とせず」という声明を出します。
さて、そもそも、この「日中戦争」とは、何なのか。
これが、よく分からない。
そもそも、広大な土地を持つ中国の全土を、占領、支配することは、相当に無理がある話で、それは、欧米列強の、どこの国も、やっていないこと。それを、なぜ、日本は、やろうとしたのか。
当時、陸軍には、「中国一撃論」というものがあったそうですね。つまり、中国は、一度、強く叩けば、腰砕けになってしまうという楽観論。これが、満州事変が成功したことで、拍車がかかってしまった。つまり、中国は、一撃をすれば、降伏をするだろうと考えたということ。
日本軍は、中国全土に侵攻をし、ついに、首都の南京を陥落させましたが、中国政府は、拠点を、奥地に移し、激しく、抵抗を続ける。中国での戦争は、泥沼化の一途を辿る。
この「日中戦争」には、「大義名分」が無かった。つまり、戦争の「目的」が無い。
一体、何のために中国と戦争をしているのかということが、よく分からない。そのため、当初は、戦争の拡大に反対する陸軍参謀も居たそうですが、それは、受け入れられず、他の部署などに移動をすることになる。
ちなみに、昭和11年(1936)11月、日本は、ドイツと「日独防共協定」を結んでいました。このドイツが、日中戦争の仲介に入り、和平交渉を行います。「トラウトマン工作」と呼ばれるもの。
この時、中国政府の蒋介石は、この和平工作に乗り気でしたが、日本の近衛内閣は、もっと有利な条件での和平条約を目指して、南京の攻撃を始め、これを陥落させてしまう。
当然、中国政府の蒋介石は、これに反発し、和平工作は、失敗に終わる。
そして、近衛内閣の「国民政府を相手とせず」という声明が出る訳ですが、中国政府を相手にしないというのなら、日本は、誰と戦争をしているのか。
日本は、どうも、これは「宣戦布告」をしていないので、「戦争」ではない。日本軍は、反乱勢力を相手に、それを鎮圧しているだけ。と、言う理論を、作り上げていたようです。
昭和13年(1938)、「国家総動員法」が、成立。
昭和15年(1940)、全ての政党が解体され、内閣総理大臣を総裁とする「大政翼賛会」が結成されます。
日本は、国を挙げての戦時体制となって行く訳ですが、「軍用資源秘密保持法」などで、軍用に関する人材、資材に関することが、極秘扱いになってしまう。
これは、国民や、議会が関われないところで、戦争が進んで行くことになる。
また、徴兵検査では、毎年、「甲」では、30万人くらいが合格をしたそうですが、当初は、入隊をするのは一部の人たちで、多くは、年に数回の訓練に参加をするだけだったそう。
しかし、日中戦争が始まると、「甲」の人は、わずかな訓練で、中国に送られるようになる。
そして、戦争が進むと、「甲」だけではなく、「乙」も「丙」も、また、同様となって行く。
この「国家総動員法」の制定で、国民生活の統制が、かなり厳しくなったそうです。
大学生の軍事教練の徹底化。賃金統制令が出され、国民のお金が、管理される。国民精神総動員が提唱される。生活刷新運動が始まる。
弁当は、日の丸弁当。男の頭髪は、丸刈り。などという習慣も、この辺りから始まったそうです。
文化、思想、精神、生活の統制が、一段と厳しくなり、ここから、日本は、戦時体制に入ったと言える。
国家の財政と、家計の「公的」「私的」の区別が無くなり、軍事費は、膨張。
軍事関連のデーターは隠され、議会は、審議も、批判も出来ない。
日本の国民は、目隠しをされたまま、戦時体制に組み込まれることになる。
昭和10年代の日本は、ファシズム体制が、極端に進んだ社会。
軍事が、政治、外交、文化、社会、そして、個人の生活まで、全てを支配してしまう。
民主主義的な発想も、政治的発言も許さない。
極端な、全体主義国家となって行った。
昭和14年(1939)、ヨーロッパでは、ドイツが、ポーランドに侵攻し、「第二次世界大戦」が始まる。
昭和15年(1940)、ドイツは、オランダ、ベルギー、そして、フランスを占領する。
この頃、日本社会では、ナチス・ドイツが、大きな人気で、いわゆる「ヒトラーブーム」が起こっていた。
この年、日本は、「日独伊三国同盟」に調印する。
ドイツの思惑としては、ソ連、そして、アメリカを、日本と同盟を結ぶことによって牽制したいという意図があったようです。
しかし、日本には、ドイツと同盟をすることで、何を期待していたのかというのが、よく分からない。実際、海軍には、このドイツとの同盟に、強く反対をする人も多かったようですが、その人たちは、同盟締結当時には、海軍中枢からは、外されていた。
御前会議や、枢密院会議でも、賛否が割れ、激しく、議論が行われたということ。
昭和14年(1939)、アメリカが、日米通商航海条約の破棄を通告。翌年、それが成立します。
アメリカと貿易が出来なくなる、中でも、石油が、アメリカから輸入出来なくなるということは、特に、海軍にとっては、大問題でした。
そこで、注目されたのが、「蘭印」(インドネシア)、「仏印」(ベトナム)の石油地帯。
オランダ、フランスは、すでに、ドイツの占領下にある。
このまま、ドイツが、戦争に勝てば、同盟を結んでいれば、日本にもその利権が入るのではないか。また、日独伊三国同盟に、更に、ソ連とも同盟を結べば、アメリカは、日本がこの地域に侵攻しても、手が出せないのではないか。
と、言った、都合の良い考えもあったようです。
しかし、すでに、ヨーロッパでの戦争で、アメリカが、イギリスを支援して、ドイツと戦っている状況。日本は、日独伊三国同盟で、アメリカを、決定的に、敵に回すことになってしまう。
しかし、また、日本としては、日中戦争を解決するために、中国を支援する米英との関係を整理しなければならないという考えもあったよう。
この「日独伊三国同盟」の締結は、日本人を、熱狂的に喜ばせました。
当時の日本人は、ドイツが、ヨーロッパを征服、日本が、アジアを征服、アメリカは、アジアから手を引いて自国の秩序を作り、ソ連もまた、自国の秩序を作る。
この四つの新秩序が、世界を平和にすると、本気で考えていたようです。
アメリカは、この頃、戦争には直接、介入をしない「中立」の立場を取っていました。
しかし、この「三国同盟」の締結を受けて、アメリカ国民の世論が、アメリカの参戦に傾くことになる。
そして、昭和15年(1940)、ドイツが、イギリスへの上陸を前提にした「バトル・オブ・ブリテン」に敗北。
世界の情勢は、日本の思惑とは違う方向に動いて行く。
昭和16年(1941)4月、日米の政府の間で、対立解消のための交渉が始まります。
この交渉は、11月26日まで続き、戦争の回避、または、開戦を遅らせるための交渉が行われました。
日本側としては、陸軍は、中国の蒋介石を支援する「蒋援ルート」を断ち切りたい。
海軍としては、三国同盟を結んだ以上、アメリカとの開戦は避けられないが、その準備のために、出来るだけ、時間を稼ぎたい。
アメリカ側としても、日本との戦争は避けられないが、出来るだけ、そのための準備期間を稼ぎたい。
しかし、この間の7月、日本は、フランス領インドシナ(現在のベトナム、カンボジアの辺り)に侵攻。これは、ドイツが占領していたフランス政府の承認を得て行われたものでしたが、アメリカは、これに、激しく反発。アメリカは、日本の資産の凍結と、石油の禁輸を決定します。
この日本軍のフランス領インドシナへの侵攻は、「フランス政府の承認があるのだから、侵略ではない」という考えがあったこと。そして、アメリカ、イギリスの拠点であるフィリピンやシンガポールに圧力をかける意図があったと思われます。
また、この日本軍の南下は、アメリカの石油の禁輸措置を見越して、東南アジアの石油を確保しておきたいという海軍の強い意図があったようです。
この日本軍のフランス領インドシナへの侵攻に関して、御前会議では、「フランス領インドシナに侵攻をすれば、戦争になるだろう」「しかし、戦争になってからでは、フランス領インドシナへの侵攻は、難しくなるので、先に、動いた方が良い」と、意見が対立し、何度も議論が行われたようですが、結局、「フランス領インドシナに侵攻をしても、アメリカは出て来ないだろう」という楽観論に、押し切られたようです。
そして、昭和16年(1941)11月26日、アメリカから、いわゆる「ハル・ノート」が、日本に提示される。
この「ハル・ノート」には、中国、フランス領インドシナからの、日本軍の撤退。三国同盟の否認などの日本への要求が盛り込まれていた。
日本政府は、この「ハル・ノート」を、最後通牒と受け止め、12月1日の御前会議で、日米交渉の打ち切りと、アメリカ、イギリスとの開戦が決定される。
実は、この「ハル・ノート」が、日本に示された時、アメリカ側は、日本が、この要求に屈服すると言う考えが、主流だったようです。
なぜなら、アメリカが石油を禁輸することで、日本には、資源がなく、戦争をするという決断は出来ないだろうと考えた。
また、逆に、日米の戦争に持ち込みたいと考える人物も、アメリカの中には居たようです。
そのために、日本側が、到底、飲めない内容を「ハル・ノート」に盛り込んだということ。
なぜなら、当時、アメリカの国民世論は、ヨーロッパでの戦争に、アメリカが参加をすることを望まないというものだった。
そのため、日本の方から、アメリカに攻撃を仕掛けさせ、それをきっかけに、アメリカの世論を、戦争参加に導きたいという思惑もあったようです。
実は、この頃、日本の社会では、長引く日中戦争などの影響で、かなりの閉塞感があったそうです。
そして、この閉塞感は、アメリカの圧力のせいだと、日本の国民は、認識をしていた。
そして、日本は、昭和16年12月8日、真珠湾を奇襲攻撃。米英を相手に、戦争を始め、国民は、それを、熱狂的に歓迎することになる。
当初、日本が戦争に突き進んだのは、これまで、よく言われているように「軍の暴走」であることは、間違いない。
しかし、この「軍の暴走」を後押ししたのは、「国民の世論」です。
つまり、当時、「国民の世論」が、「戦争の拡大」を支持していた。
もっとも、これは、マスコミによる扇動の部分が大きい。
国民は、正しい情報を得られないまま、戦争の拡大を、支持することになる。
いかに、独裁者であろうとも、やはり「国民世論」を無視して、勝手なことをすることは出来ない。
そのために、「正しい情報」を得るということが大切です。
昔は、マスコミ自身が、その「情報の統制」を行い、国民は、正しい情報を得ることが出来ず、戦争の拡大を、熱狂的に支持した。
しかし、現在、逆に、「溢れすぎる大量の情報」の中で、国民は、「自分にとって、都合の良い情報」だけを信じるようになり、かえって、国民の扇動が、容易になっている印象です。
日本が、アメリカのように、政治家によって、国民の対立と分断が煽られ、また、他国との協調を拒否するような国になったら、とても危険だと感じるところです。