さて、松平定信という人物について。

この本から。

 

 

松平定信と言えば、まず、思い浮かぶのは「寛政の改革」で、質素倹約、華美、豪華なもの、風俗を乱すものを弾圧したイメージから、真面目で、堅物な人物というイメージを持っていましたが、どうも、そうではないようです。

この「寛政の改革」は、あくまでも、幕府を立て直すために、政策として行ったもので、松平定信の「個性」とは、まるで、関係が無いと言ったところのよう。

 

寛政5年(1793)、松平定信は、老中を辞任し、まず、取り組んだのは、絵師を動員した、文化的な古物の模写です。

元々、松平定信は、古物、文化財に、とても、関心を持っていたそうで、老中退任後、全国規模で文化財調査を行い、その図録の製作に取りかかる。

それが「集古十種」と呼ばれるもので、全85巻。

白河藩お抱えの絵師たちが、全国を回り、古書画や、古器物の模写をした。

その絵師の中心に居たのは、有名な絵師「谷文晁」です。

 

寛政6年(1794)から、寛政12年(1800)まで、全国各地を回った絵師たちによって、古物、1859点を模写した「集古十種」は、完成する。

この「十種」というのは、鐘銘、碑銘、兵器、銅器、楽器、文房、扁額、印章、法帖、古画の十種。

これらが、模写の絵と共に、材質、大きさ、所在、特色などが記されている。

刊行が完結したのは、更に、数年後ということ。

 

また、同時に、絵巻や古画の模写集である「古画類従」の編纂に着手。

「源頼朝像」「伴大納言絵詞」「北野天神縁起絵巻」などを収録。

 

松平定信は、古い文化財の保護に力を入れただけではなく、新しい芸術作品の製作にも熱心だった。

 

江戸を鳥瞰して描いた屏風絵「江戸一目図屏風」。

日本橋魚河岸や、両国橋の賑わいなどを描いた「東都繁盛図巻」。

職人の風俗や庶民の生活を描いた「近世職人尽絵詞」。

これらは、松平定信の依頼で、津山藩の御用絵師、鍬形蕙斎が制作したもの。

 

この「近世職人尽絵詞」で、「絵」を描いたのは鍬形蕙斎ですが、「詞」を書いたのは、何と、「寛政の改革」で、松平定信が弾圧をした当事者、大田南畝や、山東京伝ら。

幕府の政治を預かる立場として、弾圧をした彼らですが、実は、その優れた才能は、松平定信個人としては、十分に、有益なものと認めていたということでしょう。

 

文化9年(1812)、松平定信は、築地の白河藩下屋敷で隠居。

そこは、教養豊かな大名や学者、文化人の集まるサロンとなっていたそうです。

そこには、「甲子夜話」を書いた大名、松浦静山や、「群書類従」を編纂した歴史学者、塙保己一も居た。

 

松平定信という人物が、とても、人間味豊かで、心の広い人だったということが、よく分かる。

やはり、「歴史」は、「その後」もまた、面白い。