前回、放送された大河ドラマ「べらぼう」で、浅間山が噴火、江戸の町に、火山灰が降り積もるシーンがありましたね。

これが、田沼意次、失脚の原因となる訳ですが、その経緯を、雑誌「歴史街道」の今月号から。

 

 

田沼意次は、第八代将軍、徳川吉宗の時代に、600石の旗本の子として生まれます。

父、田沼意行は、元紀州藩士で、徳川吉宗が、将軍となる時に、江戸に連れて来た50人ばかりの藩士の中の一人。

意次は、16歳の時に、徳川吉宗の嫡男、家重の小姓に抜擢されます。

40歳の時に、「郡上一揆」が勃発。

将軍、徳川家重は、禄高5000石だった意次に、評定所への出仕を命じ、問題を、見事に解決し、一揆を収束させる。

 

徳川家重から、将軍が、嫡男、徳川家治に移っても、意次への信頼は、受け継がれる。

御用取次、側用人を務め、54歳の時に、老中に就任。

本来、老中には、譜代大名しかなれないので、田沼意次の老中就任は、異例のこと。

61歳の時、徳川家治の嫡男、家基が、急死する。

家治は、意次に、継嗣の選定を委ね、跡継ぎは、一橋家の徳川家斉に決定する。

 

そして、65歳の時に、浅間山が噴火。

浅間山は、これまで、5年に一度くらいの割合で、噴火をしていたそうですが、この天明3年(1783)の噴火は、大噴火と呼べるもの。

夜のような闇が、何日も続き、凍えるほどの寒さで、農作物は、全滅。

川にも灰が降り積もり、次々と、決壊をしたということ。

意次が進めていた、印旛沼、手賀沼の干拓事業も、大打撃を受け、頓挫する。

 

かつて、大規模な「天災」は、「為政者の政治が悪いからだ」という考えがあった。

この時も、浅間山噴火による災害の批判が、権力者、田沼意次に向けられることになる。

 

この時、田沼意次の嫡男、田沼意知は、35歳の若さで、若年寄を務めていた。

そして、この田沼意知が、江戸城中で、佐野政言によって、殺害される。

実は、なぜ、佐野政言が、田沼意知を殺害したのか、理由が、よく分からないということのようですね。

二人には、接点のようなものが、何もないということ。

 

以前、別の本で読んだところでは、田沼意知を殺害した佐野政言は、世間の人に「佐野大明神」などと言って、もてはやされたそうです。

世間の批判が、いかに、田沼意次に向かっていたのかが、よく分かる。

 

そして、天明6年(1786)、田沼意次を信頼していた将軍、徳川家治が、病死。

信任をしていた将軍が亡くなり、世間の批判も厳しく、状況を見た田沼意次は、老中を辞任する。

しかし、幕閣は、辞任ではなく、老中を罷免。

田沼意次の居城、相良城は、破壊され、禄高5万7千石も、没収される。

田沼家は、殺害された田沼意知の嫡男に、1万石が下げ渡される。

 

ここまでは、以前、色々な本を読んだ知識で、何となく、知っていました。

そして、新しく知り、感心をしたのは、ここからの田沼意次、田沼家のこと。

 

天明7年(1787)、この時、すでに2万石を没収されていた田沼意次は、禄高を減らしてしまったことを家臣に謝罪し、それに耐えてくれている家臣に感謝を表明しているそうです。

そして、田沼意次は、子孫に対して7箇条の遺訓を残しているそうです。

これは、田沼意次直筆のものが残っているということ。

この内容が、素晴しい。

 

田沼意次の盟友だった水野忠友は、幕閣による田沼意次への厳しい処分を見て、田沼意次の息子、意正を、娘婿に迎えていたのだが、離縁をさせて、田沼家の絶縁をする。

しかし、水野家は、田沼家と、完全に縁を切った訳ではなかったよう。

 

田沼家では、その後、当主の早世が四代続き、五代目に、水野家を離縁された田沼意正が、当主となる。

この時、水野家では、意正が離縁された後に、婿に入った忠成が、後を継いでいた。

 

この水野忠成は、「寛政の改革」の松平定信が失脚をした後、「文政の改革」を行った人物として知られているそうですが、この忠成は、老中に就任した翌年、田沼意正を、若年寄に抜擢。

その後、田沼意正は、加増の話を断り、旧領である相良への転封を望み、老中首座だった水野忠成は、それを許可する。

禄高は、1万石のままでしたが、田沼意正は、36年ぶりに、父、田沼意次の支配した相良に復帰。

 

なかなか、感動です。

まさか、田沼意次の子が、旧領に復帰をしていたとは。

 

歴史の、その後。

なかなか、興味深いものです。