さて、この本から。

イエスの人生を、簡単に。

 

 

 

ヘロデ王の時代、ザカリアという祭司が居ました。

ザカリアの妻は、エリザベトですが、二人の間に、子供はなく、両者とも、年を取っている。

その二人の間に、子供が生まれる訳ですが、ザカリアは、天使ガブリエルから、お告げを受ける。

そして、生まれたのが、洗礼者ヨハネです。

 

その半年後、天使ガブリエルは、ガリラヤのナザレの町に住む処女マリアの前に姿を現わす。そして、「あなたは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になる」と告げる。

 

マリアには、ヨセフという婚約者が居ました。

ローマ皇帝アウグスティヌスの命令で、住民調査が行われることになり、ヨセフとマリアは、出身地であるベツレヘムに向けて、出発。

その途中で、マリアが産気づき、家畜小屋で、出産をすることになる。

イエスの誕生です。

 

ヘロデ王は、「ユダヤ人の王が生まれた」という話を聞き、ベツレヘムと、その周辺値域に居た、二歳以下の男の子を、全て、殺害する。

しかし、ヨセフは、夢のお告げによって、マリアとイエスを連れて、エジプトに逃げていた。

ヘロデは、間もなく、亡くなり、ヨセフとマリア、イエスは、帰国する。

 

イエスは、ナザレの村の大工の子として成長します。

そして、イエスは、12歳の時、両親と共に、神殿を訪れます。

そこで、イエスは、その聡明さで、周囲の大人たちを驚かす。

 

一方、洗礼者ヨハネは、ヨルダン川近くに住み、修道者として高名になっていました。

多くの人が、このヨハネを、預言者、または、救世主を考え、集まって来ていた。

しかし、ヨハネは、それを否定し、「自分よりも優れた人物が来る」と答える。

そして、イエスは、このヨハネの元を訪れ、洗礼を受けることに。

 

ヘロデ王の死後、その第二子であるヘロデ・アンティパスが、王となっていた。

ヘロデは、自分の異母兄の妻ヘロディアを、自分の妻にしていましたが、ヨハネが、それを批判したことで、ヘロデは、ヨハネを、牢に入れる。

そして、へロディアの娘の要望で、ヘロデ王は、ヨハネを殺害。

 

ヨハネから洗礼を受けたイエスは、荒れ野の中で、悪魔の誘惑と戦う。

この「悪魔」とイエスのやり取りは、なかなか、興味深いもの。

 

そして、イエスは、宗教者として覚醒し、ナザレで、布教活動を始めますが、全く、受け入れられなかった。

イエスは、故郷を去る。

そして、イエスは、ガリラヤ湖のほとりで、最初の信者を得る。

そこから、イエスの信者は、次第に、増えて行くことになる。

 

イエスは、様々な奇蹟を起し、人々を驚かすことになる。

イエスの評判は、瞬く間に、ガラリア地方に広がりますが、当然、ユダヤ教、ファリサイ派の律法学者たちの反発を呼ぶ。

イエスによる説法は、なかなか、興味深く、ぜひ、多くの人に、読んでもらいたいところ。

そして、イエスの説法は、貧しい人、差別を受けている人、病気の人など、社会的弱者に向けられている。

そこが、大きな共感を呼んだのでしょう。

 

例えば、ユダヤ教で、最も、重要なものの一つである「安息日」。

イエスは、この「安息日」を巡っても、度々、律法学者と、対立をしています。

 

「安息日は、人のために定められた。人が、安息日のためにあるのではない」

 

と、イエスは、話しますが、これは、「安息日」を「神」と言い換えても、そのまま、通用するのではなかと思うところ。

イエスの言葉は、一つ一つ、心に響く。

 

ガリラヤ湖畔、カファルナウムは、イエスが、最初に、宣教の拠点とした町だそうです。

イエスは、様々な奇蹟と、説法で、人々を魅了する。

そして、イエスは、エルサレムに向かい、神殿に入り、そこで、熱狂的な支持と、同時に、反発を受けることになる。

 

そして、イエスは、その頃から、自分の身に、これから起こるであろう、苦難を、予言するようになる。

ユダヤ教の祭司長、律法学者たちは、イエスを逮捕するための計略を練り始める。

 

そして、「最後の晩餐」。

イエスは、弟子の一人が、自分を裏切ること、そして、弟子たちが、自分から離反することを予言する。

 

そして、イエスは、弟子の一人、ユダの裏切りによって逮捕される。

他の弟子たちは、イエスを見捨てて、逃げ去ってしまった。

弟子の一人、ペトロは、その後、イエスが連れて行かれた大祭司の屋敷に、様子を伺いに行くが、イエスの仲間だと疑われ、それを否定して、逃げてしまう。

 

イエスは、裁判にかけられ、死刑という判決を受けます。

ローマ政府から、ユダヤの総督をして派遣されていたピラトの前に、イエスは、引き出される。

祭司長たちは、「イエスが、民衆を率いて、反乱を起す」と総督ピラトに訴えますが、ピラトは、宗教対立に関わるつもりはなく、ガリラヤ領主ヘロデに、判断を預ける。

しかし、ヘロデは、イエスを尋問した後、ピラトに送り返して来た。

 

ピラトは、イエスの死刑の判断を、民衆に任せることにする。

すると、民衆たちは、イエスを十字架にかけることを主張した。

イエスは、十字架を背負って、刑場であるゴルゴダの丘に向かう。

ゴルゴダの丘では、イエスの他に、二人の強盗が、同時に、十字架にかけられ、処刑される。

 

亡くなったイエスは、墓に葬られることになる。

しかし、翌朝、墓を塞いでいた岩がよけられ、イエスの遺体は、無くなっていた。

そして、イエスは、弟子たち、イエスを慕う女性たちの前に、姿を現わす。

 

復活をしたイエスの姿を、目の当たりにした弟子たちは、信仰に確信を持ち、使徒として、キリスト教の伝道に活躍をすることになる。

そして、イエスは、熱心なファリサイ派として、イエスの信者たちを迫害する立場だったパウロの前にも姿を現わし、パウロもまた、使徒として活躍。

キリスト教は、世界に広がることになる。

 

さて、以下、個人的な想像です。

 

この「新約聖書」に描かれた、イエスの姿。

奇蹟を起したり、未来を予言する言葉などは、科学的に考えて、イエスの神秘性を高めるための創作なのだろうと思います。

しかし、「新約聖書」に収録されているイエスの発する宗教的な言葉に関しては、恐らく、身近に居た人が、記録をしていたものがあり、それが、多く、参考にされているのではないでしょうかね。

以前も書いた「Q資料」と呼ばれるものも、その中の一つでしょう。

 

それにしても、イエスの宗教的な言動は、ユダヤ教の教えを覆すもので、当然、当時の、熱心なユダヤ教徒からは、大きな反感を受けることになる。

つまり、熱心なユダヤ教徒にとって、イエスは、「教えを守らない不届き者」と、言うことになる。

しかし、面白いのは、イエス自身、ユダヤ教徒であり、イエスの宗教的な考えは、恐らく、「旧約聖書」を勉強した結果、導き出したもの。

実際、「新約聖書」の中で、ユダヤ教の律法学者や祭司の攻撃に、イエスは、多く「旧約聖書」の言葉を引用して、反論をしている。

なぜ、このようなことが起こるのか。

 

最も、そのイエスの言葉が、事実だったのかどうかという問題は、あります。

しかし、イエスの行動が、「旧約聖書」に登場する言葉によって説明をすることは出来るのは、事実、と、言うことになる。

 

更に、想像を進めると、やはり、「神」のために「人間」が存在をするのか、「人間」のために「神」が存在をするのか、その解釈の違いから来るものなのではないでしょうかね。

熱心なユダヤ教徒たちは、やはり、「神」のために「人間」が存在をすると考え、どのような理不尽なことでも、「神」の教えだからと、「人間」は、それに従わなければならないという解釈になる。

しかし、イエスは、「神」は、「人間」を「幸せ」に導くものだと考えた。

そして、自分は、その「神」の代理として、「人間」を「幸せ」に導こうと決意をしたのではないでしょうか。

そのために、伝統的なユダヤ教の教えを、変えて行く解釈をすることになる。

もちろん、その根拠となる言葉は、「旧約聖書」の中から、見つけ出したもの。

 

そして、問題は、処刑された後に、イエスが「復活」をしたということ。

この「復活」を、どう解釈すれば良いのか。

 

イエスの死後、使徒たちが、激しい弾圧を受けながらも、布教活動を続けたということには、何か、根拠があるはず。

特に、最初は、イエスの信者たちを弾圧する立場だったパウロが、突然、熱心に布教活動を推進する使徒に変化をしたというのは、この、イエスの「復活」を無視しては、上手く、説明をすることが出来ない。

しかし、それは、科学的には、あり得ない。

 

一体、イエスの死後に、何があったのでしょう。

なぜ、イエスは、一つの世界的な宗教の祖となることになったのか。

神秘のベールの中に隠された真実を、知りたいところです。