この本から、「新約聖書」について。

 

 

「新約聖書」は、誰によって書かれ、どのような編成になっているのでしょう。

 

紀元後、1世紀くらいまでに、「マタイ」「マルコ」「ルカ」、それより遅れて「ヨハネ」が、イエスの生涯と「教え」を、それぞれの立場で、記したのが「福音書」です。

ルカは、他に、イエスの弟子たちが、「使徒」となってからの言動を記した「使徒言行録」も書きました。

更に、使徒たちが残した書簡と、ヨハネが記した「黙示録」を合わせて、編纂されたのが「新約聖書」です。

「旧約聖書」が、ヘブライ語で記されているのに対して、「新約聖書」は、当時、地中海世界で使われていた口語ギリシャ語である「コイネー」で記されています。

 

四つの福音書のうち、「マルコ」のものが、最も、古く、「マタイ」と「ルカ」は、その記述を踏襲、あるいは、同じ資料を基として書かれている。

 

マルコは、使徒パウロと共に、伝道の旅をしたことがあり、「使徒言行録」にも、その名前が登場する。ギリシャ後は、著者にとっては外国語であり、異邦人に伝道するために書かれたと思われる。

 

マタイによる福音書は、ギリシャ語を自由に使え、ユダヤ教の教師としての素養もあった人物によって書かれたと考えられる。

紀元50年頃、アンティオキアでまとめられた、通称「Q資料」と呼ばれる、他の資料や伝承を用いて、イエスの生涯と「教え」が、順序立てて、記されている。

ユダヤ教のキリスト教会の教化に役立てるために書かれたもののよう。

「旧約聖書」からの引用も多く、イエスが、「旧約聖書」によって予言された救世主であることを系統立てて、証明しようとしている。

 

ルカは、パウロの伝道の旅に同行し、ローマで、パウロが投獄された時にも、一緒に居た、アンティオキア出身のシリア人の医師と言われている。

「使徒言行録」の著者でもある。

Q資料を用いつつ、独自の資料も合わせて、まず、「原ルカ福音書」を書き、後に、マルコの福音書も参照して、現在のルカの福音書が書かれたと考えられる。

ギリシャ文化を身に付けた、教養のある読者を対象にしたもの。

ルカは、イエスの母、マリアから、直接、話を聞くことが出来たという伝承もあるそうです。

 

マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は、「共観福音書」と呼ばれます。

 

ヨハネの福音書は、イエスの神性を強調する霊的書物で、他の福音書(共観福音書)とは、叙述の順序が異なっている。

ユダヤ人のキリスト教徒により、紀元90年頃に書かれたと言われ、その頃には、イエスの神性の問題も議論されていたと思われる。

マルコ福音書が伝えるイエスの生涯の個々の事柄を取り上げ、神学的な考察を加えながら、展開して行く。

 

ルカによって書かれた「使徒言行録」は、イエスの死後、弟子たちが、使徒として、どのような働きをしたのか。また、生前のイエスと面識が無く、むしろ、イエスの信者を迫害する立場にあったパウロが、どのような啓示によって改心し、その後、大伝道師として宣教の度をしたのか、と、言うことが記されている。

イエスの教え、キリスト教が、世界に広がるきっかけになったのが、このパウロによる宣教活動です。

パウロは、ローマで、獄死します。

 

「ヨハネの黙示録」は、当時、ユダヤの間で流行していた文学形式によって、暗示と詩的幻想を用いて、宗教的宇宙観を記したもの。

 

これらの書が、「新しい契約の書」とみなされ、編纂されたのは、「エレミヤ書」の「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる」を基礎としてのことと考えられる。

ちなみに「Q資料」とは、そういう資料が存在をしている訳ではなく、マタイやルカが参照したと思われる「原イエス語録」があったらしいということで、その資料を指す言葉。

 

他にも「ヤコブ原福音書」「ペテロ福音書」「ヨハネ行伝」「トマスによるイエスの幼時物語」など、いくつもの文書がありますが、これらは「新約聖書」には含まれず、「外典」とされる。

 

さて、以下、余談と、想像。

 

この本を読んで、「新約聖書」が、イエスが亡くなってから、それほど、離れていない時代に書かれ、しかも、イエスの身近に居た人に、直接、接したことがある人の手によって書かれたものもあるということを初めて知りました。

しかし、この「新約聖書」の中に書かれている、イエスの生涯、言動の、どこまでが事実で、どこからが創作なのでしょう。

個人的には、そこが、最も気になるところもある。

 

想像としては、イエスの生涯の、大まかな部分は、正しいのだろうと思います。

イエスが生まれ、洗礼を受け、宗教者として覚醒し、ユダヤ教の人たちからの大きな反発を受け、処刑をされることになる。

そして、使徒たちが、イエスの教えの伝道活動を始める。

 

イエスが起す、様々な奇蹟は、もちろん、創作でしょう。

科学的に考えれば、普通の人間が、あのような奇蹟を起こせるはずがない。

 

イエスの言動に関しては、「Q資料」というものが想定をされている通り、イエスに、直接、接していた人が、記録として書き残したものがあったと思われる。

しかし、それだけではなく、イエスが、いかに優れた人物だったのかということを強調し、印象付けるために、創作された言動も、多く、含まれているものと思います。

 

そして、個人的に、最も、興味深いのは、処刑後、イエスが「復活」をする話。

 

科学的に考えれば、一度、死んだ人が、再び、蘇るということは、あり得ない。

と、言うことは、イエスの「復活」以降の話は、完全な、創作ということになる。

 

しかし、これは、完全な創作なのかと言えば、個人的には、そうでもないのではないかと思うところ。

 

以前、「縄文人の死生観」というタイトルのブログでも書きましたが、現代の人間でも、いわゆる「心霊現象」として、亡くなったはずの人が、目の前に現れるという現象を経験する人は、たくさん居る。

現代の人たちは、「死んだ人が、蘇る」ということは、あり得ないと知っているので、目の前に現れたのは「幽霊」だと認識をすることが出来る。

しかし、昔、そういう科学的知識の無かった人は、「死者が、蘇った」と、考えてしまったのかも知れない。

そして、イエスは、本当に「幽霊」として、弟子たちの前に、姿を現わし、弟子たちは、それに驚いたのかも知れない。

 

そして、この「死んだはずのイエスが、自分たちの前に、復活をした」という現象が、弟子たちを、強い意志を持つ「使徒」に変えてしまったのかも知れない。

 

さて、今、この科学文明の進んだ現代社会でも、この「旧約聖書」「新約聖書」に書かれていることは、全てが「真実だ」と思って生きている熱心なキリスト教、ユダヤ教の信者の人たちが、大勢いるんですよね。

一体、その人たちは、どういう目で、今の社会を見ているのか。