いよいよ、「六角定頼」の登場です。

この本から、想像も、交えながら。

 

 
 

 

応仁の乱を、巧みに、生き残り、その後、室町幕府将軍による、二度の討伐を受けた六角高頼ですが、しぶとく、勢力を盛り返します。

この六角高頼の嫡男は、氏綱でしたが、若くして、亡くなります。

次男であった定頼は、早くから、出家をしていましたが、還俗し、六角氏の家督を、相続することになる。

この「六角定頼」が、六角氏の最盛期を、造り出すことになる。

 

六角氏の家督継承については、史料が少ないのですが、基本的には、当主が亡くなると、家督が代わるというのが、普通だったようです。生前に、家督を、子に継がせることも無かった訳ではないのですが、六角氏にとっては、むしろ、異例なことだったよう。

そして、六角氏の家督は、近江国守護と結びついていた。つまり、家督継承と同時に、近江国の守護も、引き継いだよう。

しかし、六角氏は、近江国守護といっても、近江国一国を、支配出来た訳ではありません。

北近江は、京極氏の支配下にあり、次第に、家臣の浅井氏が、勢力を強めて来る。

高島郡では、佐々木高信の系統である「高島七頭」が、一族一揆を結成していた。

京極氏、高島七頭は、それぞれ、幕臣でもあり、六角氏からは、自立した存在。

また、滋賀郡は、延暦寺のお膝元で、六角氏と、度々、対立。

以上の状況から、六角氏の支配は、近江の南半分に限られることになる。

しかし、戦国時代、六角氏は、これらの独立した勢力にも、介入を強めて行くことになる。

しかし、結局のところ、六角氏が、近江国一国を、完全に支配することは無かったよう。

 

文明2年(1470)、京極氏は、京極持清が亡くなって以降、家督を巡る抗争が相次いで、次第に、弱体化して行くことになる。その中で、家臣の浅井氏が、勢力を伸ばして行く。

大永5年(1525)、浅井亮政が、京極高清を擁して挙兵。同時に、南近江では、伊庭氏、久里氏が、一揆を起す。六角定頼は、浅井亮政の小谷城を攻め、浅井亮政は、美濃国に逃亡。黒橋口の戦いでは、久里宗忍を討ち取って、一揆を鎮圧。

享禄4年(1531)、「箕浦河原の戦い」で、六角定頼は、京極氏、浅井氏の軍勢を破る。

天文2年(1533)、六角氏と、京極氏、浅井氏は、和睦。

天文7年(1538)、六角定頼は、佐和山城を巡る合戦に勝利し、小谷城を攻める。この時、六角軍の中には、京極高慶や、高島七頭の名前もあり、京極氏内部が、分裂していたことが分かる。

相次ぐ敗戦で、浅井亮政は、六角氏に下ることを決める。

六角定頼は、京極氏、浅井氏を下し、配下に収めたが、北近江を実効支配した形跡は無く、従来通り、北近江の支配は、彼らに任せていたよう。

 

六角定頼に関する疑問、その一、「なぜ、六角定頼は、近江国、一円を、実効支配しようとしなかったのか」。

 

永正18年(1521)、播磨国で、赤松氏の庇護を受けていた足利義晴が、細川高国に支持されて、京都で、将軍となります。

大永7年(1527)、足利義晴は、「桂川の戦い」で、三好元長らの軍勢に破れ、近江国に脱出。翌年、一度、京都に戻りますが、細川晴元との和睦交渉は決裂し、再び、近江国朽木に脱出。

享禄4年(1531)、細川晴元に呼応した浅井亮政が、高島郡に攻め込み、足利義晴は、坂本に避難。

同年、細川高国が、三好氏に攻められて自害。後ろ盾を失った足利義晴は、観音寺城の近くにある桑実寺に逃れ、六角定頼の庇護を受ける。

天文3年(1534)、足利義晴、上洛。

天文5年(1536)、足利義晴は、嫡男、足利義輝に家督を譲ることを決め、内談衆を編成。この頃、六角定頼は、室町幕府の中で、諮問役として、非常に、重要な地位を務めていた。

しかし、六角定頼は、京都に入ることは無く、近江国に留まる。

 

六角定頼に関する疑問、その二、「なぜ、六角定頼は、幕府の中で、重要な地位を占めながら、京都に入ることが無かったのか」。

 

天文元年(1532)、この頃、足利義晴は、対立する足利義維(堺公方)との争いで、京都を出て、近江国、桑実寺に居ました。

この年、足利義維の権力は、内部対立の末、瓦解することになりますが、その頃、本願寺の証如は、細川晴元の要請で、一向一揆によって三好元長を滅ぼします。

 

しかし、三好元長を滅ぼした一向一揆は、制御が効かなくなり、勝手に行動を始めます。

そこで、六角定頼は、細川晴元に手を貸し、京都の法華衆徒とも手を組み、山科本願寺を攻め落とします。

しかし、この結果、今度は、法華衆徒が、独自の行動を始め、延暦寺とも対立。これを「天文法華の乱」と言います。

六角定頼は、法華衆徒と延暦寺の間に入り、和睦交渉を進めますが、失敗。

天文5年(1536)、六角定頼は、京都に軍勢を派遣し、法華宗徒を打ち破ります。

天文15年(1546)、ようやく、法華宗徒と延暦寺は、和解。六角定頼は、その間に入り、交渉を取り持つことになる。

 

六角定頼に関する疑問、その三、「なぜ、畿内での軍事行動は、控えていたように見える六角定頼は、宗教対立には、武力行使を辞さない、断固とした姿勢で、臨んだのか」。

 

天文15年(1546)、足利義輝が、元服。加冠役は、通常、管領が務めますが、この時、足利義晴は、六角定頼に、加冠役を命じることに。

足利義輝は、元服の翌日、将軍に就任します。

この頃、足利義晴は、細川晴元と手を切り、細川氏綱と手を結ぶことを決意します。

天文16年(1547)、足利義晴は、京都の北白川城に籠り、細川氏綱を支持することを明らかにする。

しかし、六角定頼は、細川晴元に娘を嫁がせていて、細川晴元に味方をし、両者は、北白川城を包囲。足利義晴は、細川晴元と和睦をし、近江国坂本に撤退。

天文17年(1548)、足利義晴、義輝の父子は、京都に戻る。

天文18年(1549)、細川晴元は、細川氏綱を擁する三好長慶に「江口の戦い」で敗れ、足利義晴、義輝と共に、近江国坂本に逃れる。この時、六角定頼は、畿内に援軍を送り込みますが、間に合わず。

天文19年(1550)、足利義晴、穴太で死去。

 

さて、この頃、六角氏の婚姻関係。

 

六角定頼の娘は、天文6年(1537)、細川晴元に嫁ぎます。

六角定頼の息子、義賢は、能登国の畠山義総の娘との婚姻が、天文8年(1539)に、成立。

六角定頼と、父、高頼は、美濃国の土岐氏から、妻を迎えていた。

この関係から、斎藤道三に美濃国を追われた土岐頼芸を、一時、六角氏が、匿っている。

六角義賢の息子、義治は、斉藤義龍の娘を妻に迎えようとしますが、これに、父、六角義賢が激怒し、両者は、一時、対立します。

 

畿内で、細川氏綱を擁して、急速に、勢力を伸ばしていた三好長慶が、天文18年(1549)、「江口の戦い」で、細川晴元を破ると、六角定頼は、細川晴元を支援するために京都に派遣していた兵を、近江国に引き上げます。

 

六角定頼の行動には、色々と、興味深いところがあるので、また、改めて。

上に挙げた疑問について、色々と、考察してみたいと思います。

 

天文21年(1552)、六角定頼、死去。六角義賢が後を継ぎます。

六角義賢は、三好長慶と和睦。足利義輝は、京都に戻る。

天文22年(1553)、足利義輝は、細川晴元を赦免し、三好長慶の征伐を命じる。

しかし、三好長慶は、これを破り、足利義輝は、朽木に脱出。

永禄元年、足利義輝は、京都の勝軍山城に籠り、三好勢と戦いますが、和睦。

永禄3年(1560)、足利義輝は、三好長慶を、御相伴衆に任じる。

永禄4年(1561)、三好長慶と細川晴元が和睦。六角義賢は、勝軍山に軍勢を派遣し、三好氏と対立。河内国の畠山高政と連携し、三好氏と対峙。

永禄5年(1562)、「久米田の戦い」で、三好長慶の弟、実休が戦死。しかし、「教興寺の戦い」では三好氏が勝利し、六角義賢は、三好長慶と和睦。

 

永禄6年(1563)、「観音寺騒動」が、勃発。

きっかけは、六角義治が、重臣の後藤賢豊と、その子を殺害したこと。

六角氏の重臣たちは、この事件をきっかけに、観音寺城の屋敷を焼いて、本館に戻る。彼らは、浅井長政と通じて、浅井軍が、四十九院に攻め寄せ、六角義賢は、三雲氏の館、六角義治は、蒲生氏の館に脱出。

永禄10年(1567)、観音寺騒動の終息に伴い、「六角氏式目」が制定される。

この「六角氏式目」は、主君と家臣が、互いに、守るべきものを決めた分国法と言うことになるようです。

しかし、すでに、六角氏は、家を建て直す時間的余裕は、全く、無かった。

 

永禄11年(1568)、足利義昭を奉じた織田信長の上洛に抵抗して、敗北。六角義賢、義治は、観音寺城を脱出し、近江国南部で、抵抗を続ける。

六角氏の抵抗の拠点となったのは、甲賀郡、愛知郡。

天正元年(1573)、浅井氏の滅亡と共に、六角義治は、織田信長に降伏。

天正2年(1574)、六角義賢は、伊賀方面に逃亡。

 

六角義賢、義治は、その後、足利義昭と、行動を共にする。

足利義昭の配下で、その構成員として活動をしますが、その後、豊臣秀吉に仕える。

慶長3年(1598)、六角義賢、宇治で、死去。

慶長17年(1512)、六角義治、加茂で、死去。

 

六角義賢の子、高定は、大原氏を継いでいた。

この六角高定の子、定治は、六角義治の娘と結婚。

その子孫は、加賀藩士として、存続する。

 

織田信長の上洛に抵抗し、長い歴史を誇る名門「六角氏」は、あっけなく、滅びてしまった。

残念なところです。