前回、放送されたNHKの「歴史探偵」。
テーマは、「南朝」でしたが、個人的に、特に、興味を持っている「後南朝」についての話もありました。
この上の二冊。以前、読みましたが、とても、面白い。
南朝に関しては、史料が少なく、実態は、よく分からないというのが、一般的のようですが、「南北朝合一」の後も、活動を続けた「後南朝」に関しては、尚更です。
天皇が、「南朝」と「北朝」に分かれた経緯は、有名ですが、その後、両者の戦いは、長く、続くことになる。
理由としては、「北朝」、つまり、足利幕府の中に内紛が起こり、足利将軍に対抗する勢力が「南朝」を、いわゆる「錦の御旗」として、担ぎ上げることになる。
このため、戦力としては、圧倒的に劣勢だった「南朝」は、度々、息を吹き返し、その後も、長く、続いて行く。
しかし、明徳3年(1392)将軍、足利義満の交渉で、南朝の後亀山天皇は、「三種の神器」を返還し、南北朝の合一に同意し、京都に戻る。
この時の条件では、「南朝、北朝、両方の人物が、交互に皇位を継承する」ということになっていたのですが、その約束は、守られなかった。
そのため、南朝の遺臣、そして、後亀山天皇の子に始まる「小倉宮」の系統の人物は、度々、幕府に、反旗を翻すことになる。
これが「後南朝」です。
この「後南朝」の活動で、最も、インパクトを与えたのは、嘉吉3年(1443)、「源尊秀」を名乗る人物を首領とする武装集団が、京都の御所に押し入り、「三種の神器」の奪取を試みる。
武装集団は、「三種の神器」の内、「剣」と「神璽(八尺瓊の勾玉)」を奪取。
源尊秀は、南朝後胤の兄弟「通蔵主」「金蔵主」を奉じて、比叡山に立てこもる。
この二人の兄弟は、後亀山天皇の弟、惟成親王の孫という説が、有力だそうです。
これを「禁闕の変」と言います。
幕府は、この反乱を鎮圧し、金蔵主は、戦死、通蔵主は、捕らえられ、四国に配流されますが、途中で、殺害。
持ち去れれた「剣」は、清水寺で発見されますが、「神璽」は、行方不明。
この時、この「神璽」を発見し、取り戻すことを申し出たのが、「嘉吉の乱」で、将軍、足利義教を暗殺し、幕府軍によって滅ぼされた赤松家の遺臣です。
彼らは、「赤松氏の再興」を条件に、幕府に、この申し出をし、認められます。
この頃、後南朝の勢力は、吉野の更に奥地である「北山」並びに「川上村」に拠点を置いていた。
赤松氏の遺臣たちは、巧みに、後南朝勢力に接近し、長禄元年(1457)、ついに、南朝の末裔「自天王」と「忠義王」を殺害。
見事、「神璽」を奪い返しますが、この時は、後南朝に味方する吉野の村人たちの追撃を受け、「神璽」が、奪い返されます。
これを「長禄の変」と言います。
翌年、赤松氏の遺臣たちは、再び、後南朝の拠点に攻め込み、今度は「神璽」を取り返すことに成功。
赤松家は、復活することになる。
番組の中で、この「長禄の変」の翌年から、毎年、川上村で行われているという「自天王」を偲ぶ儀式が、紹介をされていました。
後南朝にまつわる儀式が、現代まで、延々と、続けられているということは、初めて、知りました。
ちなみに、この「自天王」とは、誰なのか。
ネットで調べて見ると、出自、生涯は、やはり、不詳だということのよう。
そもそも、南朝の後胤ではないという説もあれば、南朝の天皇だった長慶天皇の三世の孫という説もあるようです。
また、「自天王」が、「天皇」であること、「忠義王」が「征夷大将軍」であることをうかがわせる史料も、残されているという話。
まさに、歴史の「闇」の中に消えて行った「後南朝」。
何だか、ロマンがありますね。