この本の「旧約聖書」に関する部分を読了。
色々と、興味深いものでしたが、いくつか、個人的に、納得の行かない部分も。
一つは「ヨブ記」について。
この「ヨブ記」は、「旧約聖書」の中にある、説話のようなお話となりますが、この「ヨブ記」については、以前、どこかで目にしてから、ずっと、気になっていたんですよね。
そして、今回、読んだ「聖書物語」の中にも、当然、この「ヨブ記」の話も登場する訳で、やはり、どうも、読んでいて違和感がある。
この「ヨブ記」は、一言で、内容を説明するなら「主人公の『ヨブ』の、信仰心の強さを、『神』が、試す」というもの。
ヨブは、「神」と「サタン」によって、その信仰心を試すために、とんでもなく、酷い目に遭わされ続ける。
それでも、ヨブの信仰心は、揺るがない。
そして、様々な苦難に遭わされながらも、信仰心の揺らぐことのないヨブを、絶賛する形で、話は終わる訳ですが、どうも、個人的には、あまり、良い話とは思えない。
「神」を信じるために、酷い目に遭うなど、本末転倒のような気がする。
また、自身の身に降りかかる苦しみも「神」の与えてものだというのなら、一体、「神」とは、何のための存在なのか。
やはり、僕の信仰心は、薄い、と、言うことになるのでしょうかね。
そして、もう一つ、気になることが。
それは、「神」に対して、頻繁に、「生贄」を、捧げる場面が登場すること。
この「神」に対して、「生贄」を捧げるというのは、ユダヤ教に限らず、かつては、世界の各地で、行われていたことなのでしょう。
なぜ、人間は、「神」に対して「生贄」を捧げるという行動を取るのか。
これは、昔から、不思議だったんですよね。
やはり、「神」に、何か、お願い事をして、それを叶えてもらうには、何か「犠牲」が必要だ、と、言う発想なのでしょうか。
やはり、「命」というものは、最も、重要なものでしょうから、最も、重要な「命」を、「神」に捧げるのが、最も、効果的だという発想なのでしょうか。
ならば、やはり、最も、重要なのは、「人間の命」ということになるのでしょう。
日本には、「人柱」という風習があり、これもまた、「神」への「生贄」の一種ということになるのではないでしょうか。
そして、イエス・キリストが、十字架に架けられたのも、この「生贄」の一種、と、言うことになるのですかね。
これから、「新約聖書」の部分に入ります。