さて、この本から。

 

 

イスラエルの黄金時代を築いた「ソロモン」の死後、イスラエルの国家は、南北に分裂することになります。

イスラエル民族には、12の部族がありますが、北部に住んでいた10の部族が、ソロモンの子「レハブアム」が、後を継いで「王」となることに反対。

そのため、国家は、南北に分裂をすることになったようです。

ちなみに、北の王国は「イスラエル」、南の王国は「ユダ」を名乗ることになる。

神の都エルサレムは、南王国ユダの中にあり、北王国イスラエルは、「ダン」と「ペテル」を、新たな神の都と定め、両者は、敵対することになる。

 

イスラエル民族の国家は、ここから、衰退をして行くことになるのですが、それに対して、存在感を高めて行くのが「預言者」と呼ばれる人たち。

この「預言者」とは、神の意志を受け、神の言葉を伝える人のこと。

彼らは、奇蹟を起し、貧しい人に食物を与え、死者を蘇らせたりもする。

その点、後の「イエス・キリスト」と同じですが、なぜ、イエスだけが、新しい宗教の祖として崇拝されることになったのか。大きな疑問ですが、それは、また、別の話。

預言者「エリア」「エリシャ」「アモス」「ホセア」「イザヤ」「エレミア」といった人たちが、活躍をした。

彼らは、イスラエルの人たちや、時の権力者たちに、神の言葉を伝え、神の教えから離れてしまった彼らの批判を続ける。

 

北王国イスラエル、南王国ユダ、共に、宗教的に、堕落をして行くことになる。

預言者たちは、それに対抗する訳ですが、権力者たちも、イスラエルの人たちも、預言者の言葉を、素直に受け入れる訳ではない。

預言者たちの存在、活動は、孤独です。個人的には、彼らの行動には、大きな魅力がある。

 

歴史的な経緯を見れば、ダビデ、ソロモンの、イスラエル国家の全盛期は、エジプトの力が衰え、周辺地域に強力な国家の存在が無かったために、実現をした面もあるようです。

しかし、イスラエル国家が、北王国イスラエル、南王国ユダに分裂をした頃、東に「アッシリア帝国」という強力な国家が存在し、勢力を伸ばしていた。

このアッシリア帝国の攻勢に耐えきれず、北王国イスラエルは、首都のサマリアを落とされ、滅亡をすることになる。

この北王国イスラエルに住んでいたイスラエルの人たちが、その後、どうなったのかは、定かではないそうです。

 

アッシリア帝国は、その後、エジプトも占領下に置き、古代オリエントを統一します。

しかし、その間も、南王国ユダは、存続を続けました。

強大な力を持って、古代オリエントを統一したアッシリア帝国ですが、それから、間もなく、滅びることになります。

エジプトは、アッシリアの支配を抜け出して、力を回復。

アッシリア帝国の後には、「新バビロニア」という国家が誕生します。

南王国ユダは、この新バビロニアの攻撃によって、首都エルサレムを落とされ、滅亡します。

 

そして、新バビロニアは、首都エルサレムに立てこもっていたイスラエルの人たち、一万人を、捕虜として連行します。

これが、有名な「バビロン捕囚」です。

この「バビロン捕囚」は、合計、三回、行われ、全部で、約一万五千人のイスラエルの人たちが連行されたということ。

彼らは、イスラエルの人たちの中でも、上層部に居た人たちだったそうで、このバビロン捕囚は、「旧約聖書」「ユダヤ教」の成立に、大きな影響を与えます。

現在に続く、イスラエルの人たちは、この「バビロン捕囚」に遭った人たちの子孫ということになるようですね。

 

北王国イスラエル、南王国ユダ、共に、「王」の行為が、「神」の教えを離れて行くことになります。両国が、滅びたのも、そのためということになるのでしょう。

預言者たちは、それに苦言を呈し続けるのですが、王は、それを、聞き入れなかった。

 

ちなみに、北王国イスラエルは、土地が広く、豊穣だったので、近隣の国々から狙われる危険性も高かったようです。

政権も不安定で、約200年の間に、九回も王朝の交代があったということ。

一方、南王国ユダは、首都エルサレムに、ある程度の富が蓄えられていたこと、王が、ダビデの血統を継いでいたことなどの理由で、近隣諸国から攻撃を受けることも、北王国イスラエルに比べて、少なかったということのようです。

 

元々、イスラエルの人たちは、「モーセ」そして、その後の「士師」など、直接、「神」の意思を受けた人によって率いられていた訳ですが、それは、最盛期を築いた「ダビデ」「ソロモン」も同じで、そこまでは、民族としては、苦難の中でも、順調に進んできたということになるのでしょう。

しかし、国が、南北に分裂をしてから、もはや「王」は、「神」の意思を受けた者ではなく、直接、「神」の意思を受けた「預言者」が、彼らを批判することになる。

この構図は、個人的に、少し、気になるところ。

 

国の権力を握る「王」ではなく、なぜ、一個人の「預言者」に、「神」は、自分の意思を伝えるようになったのか。

 

個人的な推察ですが、やはり、俗世で、大きな権力を握るようになった「王」という存在は、もはや、「神」の意思も通じないということなのでしょうかね。

つまり、「神」の意思によっても、「王」という存在は、容易に、コントロール出来る存在ではなくなってしまった。

そこで、「神」が目をつけたのが、「弱い存在」である一個人。

 

キリスト教に関連する本を読んでいると、「神」は、「弱者」と共にあるという話が、よく出て来る気がします。

やはり、俗世で、強い力を持つ者に、「神」は、もはや、必要がない、と、言うことになるのでしょうかね。