さて、この本から。
「出エジプト記」までを、読了。
物語は、さておき、気になったことを、いくつか。
そもそも、なぜ、「出エジプト」なのか。
その時、イスラエルの人たちは、エジプトに居たんですよね。
なぜ、イスラエルの人たちが、エジプトに居たのかと言えば、本来、居るはずだった場所が、飢饉で、食べる物が無く、生活をして行くことが出来なくなってしまったから。
本来、居るはずだった場所を離れて、イスラエルの人たちはエジプトに移動する訳で、その経緯については、色々と、複雑で、面白い物語があるのですが、それは、省きます。
エジプトに入ったイスラエルの人たちは、結局、エジプトで、奴隷として扱われるようになってしまう。
生きて行くことは出来るが、虐げられた生活。
その、奴隷として、エジプトで、虐げられていたイスラエルの人たちの救世主となるのが「モーセ」という人物。
なぜ、モーセが、イスラエルの人たちの救世主となったのか。
それは、「神」によって、指名されたから。
そして、モーセは、神の力を示して、エジプトのファラオと対決をする訳なのですが、この対決が、なかなか、面白い。
当然、ファラオは、モーセを通して発揮される神の力に敗れる。
ファラオは、イスラエルの人たちが、モーセと共に、エジプトを出ることを認める。
映画「十戒」で、海が、二つに割れるシーンは、有名ですよね。
僕も、このシーンだけは、知っていましたが、これは、ファラオが、モーセが率いるイスラエルの人たちを軍隊に追わせた時に起こったことで、イスラエルの人たちが、割れた海を渡り、エジプトの軍隊は、それを追いかけたところ、割れた海が、また、元に戻り、エジプトの軍隊は、全滅する、と、言うことのよう。
さて、個人的に、大きな違和感が、一つ。
それは、「神」は、あくまでも、イスラエルの人たちのための「神」でしかないということ。
「神」は、「天地創造」の物語でも分かるように、この世界の全てを、創造した存在。
ならば、「神」は、この世界に存在する、全ての人にとっての「神」であるべきなのではないかと思うのですが、そうではない。
あくまでも、「神」は、イスラエルの人たちのために存在をしている。
そのため、他の民族の人たちには、残酷で、容赦なく、非道な存在。
恐らく、「神」の存在とは、伝統的に、このようなもので、だから、今でも、「神」を巡って、争いが絶えない。
つまり、「神」とは、「自分たち」にとっての「神」であり、「自分たち」以外の人たちには、どのような非道で、残酷なことをしても構わない、と、言うことになる。
なぜなら、それが、「神」の意思だから。
さて、「神」の意思によって、モーセは、イスラエルの人たちと共に、エジプトを出る。
そして、「神」との「約束の地」である「カナン」に向かう訳ですが、延々と続く、過酷な砂漠の中で、イスラエルの人たちは、モーセに不信感を持ち、規律も乱れる。
モーセに従わないということは、「神」に従わないということと同じで、「神」は、自分の意思に従わない人たちも、容赦ない。
それでも、モーセは、イスラエルの人たちを率いて、進んで行く。
そして、モーセは、「神」から、「シナイ山」で「十戒」を、授かることになる。
あなたには、わたしをおいて、他に神があってはならない。
あなたは、いかなる像も、造ってはならない。
あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。
あなたの父母を敬え。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
隣人に関して偽証をしてはならない。
隣人の家を欲してはならない。
以上が、「十戒」です。
ここでも、個人的に、気になることが、一つ。
それは、「安息日」について。
この「安息日」を、「休日」と、誤解している人は、多いのかも。
僕も、昔は、そうでした。
しかし、「安息日」は、「休日」では無いんですよね。
ユダヤ教にとって「安息日」とは、「積極的に、何もしない日」、つまり、「何をするのも、絶対に駄目な日」ということになるようです。
聞いた話では、今でも、敬虔なユダヤ教徒の人は、「安息日」には、「部屋の電気をつけるスイッチを押す」ということもしないということ。
これでは、他の日の方が楽なのではないでしょうかね。
この本の中でも、モーセと、イスラエルの人たちの長く、苦しい旅の中で、「安息日には、食糧を探すということも、してはいけない」という話が出ていました。
ちなみに、イエス・キリストは、この「安息日」にも、病気の人を治療するという行為を続けて、ユダヤ教徒から非難をされたんですよね。
また、ユダヤ教徒から差別をされた人たちにも、手を差し伸べた。
その点、大きく、異色ですよね。
そして、モーセは、「約束の地」である「カナン」を目前にして、亡くなることになる。
なぜなら、それが、「神」の決めたことだから。
どうも、旧約聖書の中で、「神」と、直接、接することが出来たのは、この「モーセ」だけ、と、言う話のよう。
それだけ、重要な人物ということになるのでしょうね。