鍋島直茂に、家の実権を奪われた龍造寺氏は、その後、どうなったのか。

この本から、私見も交えて。

 

 

龍造寺隆信が「沖田畷の戦い」で戦死し、龍造寺当主は、名実、共に、龍造寺政家となる訳ですが、龍造寺氏の一族、そして、龍造寺家の家臣団は、重臣の鍋島直茂を家の指導者として頼るようになります。

なぜ、龍造寺政家は、家臣団を統率することが出来なかったのか。

 

個人的な想像としては、やはり、器量の不足。

龍造寺隆信が生きている間に、家督を譲られている訳ですが、当主として、戦国武将として、目立った行動が見えないよう。

また、鍋島直茂の存在が、龍造寺家の家中で、すでに、龍造寺政家を凌ぐ、大きな存在となっていたこと。

やはり、鍋島直茂は、龍造寺家の重臣筆頭。更に、豊臣秀吉とのパイプも持っている。武将としての実績も、申し分ない。

トップの器量としては、龍造寺政家は、鍋島直茂に、大きく、遅れを取っていたという状況だったのでしょう。

戦国乱世の末期で、「家」の存続を目指すには、龍造寺一族を始め、重臣たちも、鍋島直茂の力に頼る他、道は無かったのでしょう。

そして、それが、「龍造寺家の分裂」という最悪の事態を回避することに成功し、「家」自体は、龍造寺氏から鍋島氏のものになったものの、無事に、存続をすることが出来た。

 

豊臣政権の時に、龍造寺政家は、隠居し、家督を、高房に譲ります。

 

そして、江戸時代。佐賀藩が成立。

 

その中で、慶長12年(1607)、龍造寺高房が、妻を殺害して、自害をします。

同年、隠居をしていた父、龍造寺政家も死去。

これ以前、すでに、龍造寺家の権力は、鍋島氏に、正式に継承されていたようです。

龍造寺高房には、村田安良、佐野源四郎といった弟が居ましたが、彼らは、鍋島氏の家臣になっています。

この龍造寺高房の死は、後年、高房が亡霊になったという噂が広がり、これが、龍造寺氏の飼い猫が、化け猫となって鍋島氏を苦しめるという「化け猫騒動」物語に発展し、歌舞伎の演目にもなることになります。

 

龍造寺高房には、伯庵という子供が居ました。

寛永11年(1634)閏7月、京都に向かった伯庵は、上洛をしていた第三代将軍、徳川家光に、龍造寺家の再興を訴えます。

この伯庵は、龍造寺隆信と同じ宝琳寺に預けられて出家をし、鍋島氏の監視下に置かれていたそうです。

しかし、寛永7年(1630)に行方不明となり、京都に姿を現わすまで、行方不明となっていました。

この伯庵の行動には、龍造寺隆信の孫、勝山勝種、龍造寺高房の弟、朝山将監ら、鍋島氏に不満を持つ龍造寺一族の支援があったそうです。

 

この伯庵の行動に対して、幕府は、江戸で、鍋島勝茂に弁明を求めます。

鍋島勝茂は、龍造寺長信の子、安順を江戸に出府させ、弁明をしています。

この時、安順は、鍋島氏の正当性を、幕府に主張したそうです。

 

正保元年(1644)、幕府は、伯庵の訴えを却下し、伯庵と、勝山勝種を、会津に送ることを決定する。

 

鍋島家に残った龍造寺一族は、その後、どうなったのか。

 

龍造寺隆信と家督を争った鑑兼は、その後、許され、その子、家晴は、龍造寺家の重臣として活躍。

龍造寺家晴は、伊佐早を拠点とし、ここを諫早と改め、その子、直孝は、名字を「諫早」に改め、「諫早鍋島家」として、鍋島藩を支えることになる。

 

龍造寺隆信の弟、信周は、史料が少なく、よく分からない部分が多いが、龍造寺隆信の死後、鍋島直茂と共に、龍造寺家を支える存在だったのは確実。

龍造寺周信は、須古城に入り、「須古鍋島家」として存続する。

 

龍造寺隆信の、もう一人の弟、長信は、隆信の同母弟であり、母の慶聞が、同居をしていたこともあり、龍造寺家の中で、重きを成していた。

鍋島直茂への権力の委譲を、信周と共に、江戸幕府に容認し、「多久」姓を名乗る。

伯庵の行動に反論し、鍋島氏の正当性を幕府に訴えたのが、長信の子、安順。

 

龍造寺隆信の子、家信は、後藤家を継承し、「島原の乱」にも従軍。

子の茂綱は、一時、龍造寺政家から龍造寺姓を与えられるが、寛永年間(1624~1644)、鍋島勝茂から、鍋島姓を与えられ、「武雄鍋島家」となる。

 

龍造寺隆信の子、家種は、江上家を継承する。

家種は、朝鮮出兵の時に、釜山で病死。子の茂美は、「佐野」姓を名乗っている。

次男の勝山勝種は、伯庵を支援し、会津藩に預けられ、会津藩士となる。

 

龍造寺政家の子、安良は、「村田」姓を名乗る。

龍造寺高房に変わって江戸証人という立場となり、江戸に打越屋敷が与えられ、江戸幕府から俸禄も受け、佐賀藩と幕府の両属の状態となる。

安良の後を継いだ氏久は、弟の影利を徳川家光に仕えさせたが、影利が病死をすると、幕府からの俸禄を打ち切られ、氏久は、再支給を要求するが、逆に、村田家は、処罰を受けることに。

氏久は、その後、鍋島勝茂の孫、政辰を養子として、村田家を継がせることに。

寛文5年(1665)、江戸証人職の廃止により、政辰は、肥前国に戻る。

 

さて、このように、龍造寺一族は、当主の座を鍋島氏に取って代わられ、自らは、鍋島氏の家臣となることで存続して行くことになる。

 

そして、太平の時代となった江戸時代、戦国時代を回顧するための「軍記物」が、各地で、編纂されることになる。

九州での早い例としては、寛永年間(1624~1644)に、大友家の家臣だった佐伯氏に仕えた杉谷家の一族、宗重が「大友興廃記」を編纂する。

これに続いて、「大友記」「大友武豊筑乱記」「両豊記」などが、書かれる。

 

佐賀藩では、貞享年間(1684~1688)に、佐賀藩の学者、石田一鼎が「奉厳公御年譜」を記し、元禄年間(1688~1704)には、佐賀藩士の犬塚盛純が「歴代鎮西志」「歴代鎮西要略」を記して、藩に提出している。

この三つの書は、龍造寺隆信の生涯を記していて、後世に与えた影響は、大きい。

元禄から、享保年間以降、佐賀藩では、軍記物の編纂ブームが起こっていたということ。

そして、第五代藩主、鍋島宗茂は、享保元年(1716)、兄、𠮷茂の後継者となるに及び、「龍造寺家系図」「鍋島氏系図」を作成し、藩を挙げて、龍造寺氏の顕彰に努めたということ。

これを受けて、佐賀藩では、藩の成立についての書籍の編纂が始まり、享保年間には「鍋島直茂公請」が編纂される。

これには、鍋島直茂の生涯と、龍造寺隆信との関係も記されている。

これによって、龍造寺隆信の存在が、再び、知られるようになる。

 

ちなみに、ある本によれば、江戸時代には、大名家の「初代」となった人物や「中興の祖」となった人物を主人公にした「名君禄」というものが、盛んに作られたそうです。

つまり、「家」の「初代」や「中興の祖」が、「いかに優れた人物だったのか」ということが、この「名君禄」で、様々な逸話が、収録されることになる訳ですが、その、ほとんどが、史実ではなく、創作されたもののよう。

 

恐らく、鍋島直茂についても、多くの創作逸話が作られたはず。

これは、江戸時代に「家」を繋いだ、他の戦国大名たちも、例外ではない。

 

逆に、「家」を滅ぼしてしまい、江戸時代に「家」を継ぐことが出来なかった戦国武将には、「なぜ、家が滅びたのか」という理由を求めて、家を滅ぼした戦国大名には、「悪評」が創作されることになる。

龍造寺隆信を始め、大友義鎮、宇喜多直家、松永久秀、斎藤道三、北条氏政、大内義隆など、その典型でしょう。

 

彼らの復権を、望むことろです。