龍造寺隆信が「沖田畷の戦い」で戦死をした後、龍造寺家は、重臣だった鍋島直茂に乗っ取られる格好になる訳ですが、その経緯は、どうだったのか。
この本から。
私見も交えながら。
龍造寺氏と鍋島氏。
この二氏の関係は、「龍造寺氏中興の祖」と言われる龍造寺家兼の時代から、非常に深く、鍋島氏が、いかに優れていて、いかに龍造寺氏を支えていたのかという逸話が、数多く、存在をしているようですが、これは、恐らく、江戸時代に創られたもので、ほぼ、事実ではないのだろうと思っています。
しかし、鍋島氏が、龍造寺氏にとって、とても重要な重臣だったことは事実で、とても優れた人物を輩出したことは事実でしょう。
特に、結果的に、龍造寺家を乗っ取る格好となる鍋島直茂には、龍造寺隆信との関係で、色々と、多くの逸話があります。
しかし、それも、多くが、後世の創作でしょう。
鍋島直茂は、鍋島清房の次男で、本来なら、家督を継ぐ立場ではなかったようですね。
しかし、大友氏との肥前国を巡る抗争の中で、鍋島直茂は、頭角を現わしたようです。
鍋島直茂と言えば「今山の戦い」での活躍が有名ですが、これも、基本的に、創作だろうと思っています。
一次史料からは、この時、鍋島直茂が、どのような活躍をしたのか、確認することは出来ないようですが、この頃から、鍋島直茂が、龍造寺家の中で、大きな存在感を示すようになったのは、事実のようです。
さて、この龍造寺氏と鍋島氏との関係で、問題になるのは、龍造寺隆信が「沖田畷の戦い」で戦死をした後のこと。
その時、龍造寺隆信は、すでに、政家に、家督を譲っていました。
しかし、龍造寺氏の大国柱だったのは、隆信で、その隆信が戦死をした後、どのように家を維持して行くのか。
龍造寺政家と、家臣団は、筑後国の支配を任されていた鍋島直茂を、呼び戻すことにします。
この結果、龍造寺家は、当主の龍造寺政家を、龍造寺隆信の弟、信周、龍造寺胤栄の弟、家就、そして、重臣の鍋島直茂の三人で支えることになったそうです。
しかし、龍造寺政家は、島津氏の攻勢に耐えることが出来ず、島津氏の傘下に入ることに決める。
そして、天正14年(1586)、龍造寺政家は、家中の家裁判を、鍋島直茂に任せることを宣言する。
恐らく、これで、鍋島直茂は、龍造寺家の「家宰」になったということになるのではないでしょうか。
つまり、鍋島直茂は、龍造寺家に関する全般を、取り仕切ることになる。
同年10月、龍造寺政家は、豊臣秀吉に帰順することを申し出て、認められる。
島津氏の豊後国への侵攻の合間に、龍造寺軍は、肥後国に攻め込みますが、豊臣秀吉に命令によって、軍を引き上げる。
実は、鍋島直茂は、龍造寺家の外交も担当していたそうで、それは、天正10年(1582)まで遡るそうです。
鍋島直茂は、この時、「山崎の戦い」で、明智光秀を破った秀吉から、返書を受け取っているそう。
また、「沖田畷の戦い」で、龍造寺隆信が戦死をした後は、小早川隆景を通じて、秀吉と連絡を取り合っていたそう。
鍋島直茂は、早くから、羽柴秀吉と、親密な関係にあった訳で、恐らく、龍造寺家としても、中央政権と強いパイプを持つ鍋島直茂に頼ることで、家を維持しようという意図があったのでしょう。
豊臣秀吉による島津討伐が終わり、九州の諸大名の領地が決められる訳ですが、龍造寺政家は、肥前国の7郡(佐賀、小城、神崎、三根、杵島、藤津、松浦)を与えられ、この時、鍋島直茂は、別に、養父郡の半分と、高来郡の一部が与えられ、秀吉からは、独立をした大名として扱われた。
ちなみに、豊臣秀吉は、有力大名に仕える優れた重臣を、その大名から切り離し、自身の家臣として取り立てようと行動をしていた。毛利家の小早川隆景は、その筆頭格ですが、上杉家の直江兼続にしろ、徳川家の井伊直政にしろ、基本的に、主家を支える姿勢を貫き、主家を離れることは無かった。
そして、天正15年(1587)に起こった肥後国人一揆の平定に活躍をしたことで、鍋島直茂は、その存在感を高める。
この時、当初、秀吉から一揆平定の命令を受けたのは、龍造寺政家でしたが、政家は、病気と称して、出陣をしなかった。
そのため、大坂から、鍋島直茂が九州に戻り、軍の指揮を取ったということ。
しかし、秀吉は、当初から、龍造寺軍を鍋島直茂に指揮を取らせる考えだったと見ることも出来るよう。
鍋島直茂に、小早川隆景と協力をして一揆に当たるように、秀吉は指示を出しているそうです。
天正16年(1588)7月、龍造寺政家は、嫡男の長法師丸(後の、高房)と共に上洛。
秀吉は、龍造寺政家を肥前守に任命し、羽柴、豊臣の姓を下賜する。
そして、翌年には、鍋島直茂と、嫡男の勝茂にも、秀吉は、豊臣姓を下賜している。
天正18年(1590)1月、秀吉は、長法師丸に30万石余の朱印状を渡し、そのうち、4万石余を鍋島直茂に与えて、政治を任せている。
同年2月、秀吉は、龍造寺政家を隠居させ、隠居領を与えている。
恐らく、これには、龍造寺家を、実質的に、鍋島直茂に任せようという豊臣秀吉の意図があったはず。
豊臣政権の中の、鍋島直茂。
天正15年(1587)、秀吉は、筑後国発心城の草野家清を誅殺した後、草野領の代官に、鍋島直茂を任命している。
同年6月、バテレン追放令が出た時に、鍋島直茂は、長崎の代官に任命されている。
文禄元年(1592)、朝鮮出兵の時には、秀吉は、龍造寺軍の軍役を、直接、鍋島直茂に命じている。
そして、「文禄の役」では、鍋島直茂は、加藤清正と行動を共にして活躍。
慶長元年(1596)、龍造寺一族と、その家臣たちは、鍋島直茂、勝茂に、忠誠を誓う起請文を作成している。
つまり、この時点で、龍造寺家が、藤八郎(後の龍造寺高房)ではなく、鍋島直茂、勝茂に、継承されることを、龍造寺一族と、その家臣団は、承知していたということになる。
鍋島直茂が、実質的に、龍造寺家を乗っ取る格好となったのは、一次史料を見る限り、豊臣秀吉の意向によるところが大きい印象です。
直茂が、中央政権からないがしろにされる龍造寺家に対して、色々と、気を遣う逸話もあるようですが、物語は、史実ではないとしても、似たような状況は、あったものと思われます。
慶長5年(1600)、「関ヶ原の戦い」が起こる訳ですが、鍋島直茂は、その時、龍造寺隆信の十七回忌の法要を名目に、肥前国に戻っていた。
そして、上方に居た鍋島勝茂は、西軍に参加をする。
鍋島直茂、勝茂は、毛利輝元と親しく、上方に居た藤八郎の安全を守るために、鍋島氏は、西軍に参加をしたと思われる。
そして、西軍は、敗北。鍋島勝茂は、大坂で、徳川家康に面会をし、謝罪。勝茂は、許され、西軍の筑後国柳川城の立花宗茂を討つことを命じられる。
鍋島直茂は、帰国をした勝茂と共に、小早川秀包の久留米城を開城させ、筑後国八院で、立花軍と交戦。更に、島津氏と戦うため、肥後国に侵出。この功績により、領国は安堵される。
ここから、近世大名としての「鍋島家」が始まる訳ですが、なぜ、西軍に加担をした鍋島直茂、勝茂を、何の処分もなく、許したのか。
個人的な想像としては、当主、鍋島直茂が、九州に居て、本戦である「関ヶ原の戦い」に参加をしていなかったということ。
そして、これから、徳川家康が「天下人」として、九州を支配するにあたり、鍋島氏は、とても重要な存在だと考えたからではないでしょうかね。