大平戦争末期に活躍をした日本海軍の局地戦闘機「紫電改」に関する話が、二つ。

 

 

 

 

一つは、鹿児島県阿久根市の沖の海底に沈んでいる「紫電改」を、引き上げようという計画があるそうです。

 

この紫電改に登場していたのは「林喜重」大尉。

343空・戦闘407の隊長です。

昭和20年(1945)4月21日、B29を迎撃するために愛媛県松山の基地を離陸。

B29の11機の編隊に、僚機3機と共に、攻撃をする中、被弾をし、海面に不時着水を試みたが、干潮で、砂浜に激突をする格好となり、林大尉は、頭部を強打し、亡くなったということ。

 

昭和20年(1945)7月24の豊後水道上空での空中戦で、未帰還になった六機の中の一機と思われる紫電改が、愛媛県南宇和郡の久良湾の海底から、昭和54年(1979)に引き上げられ、展示をされている。

この紫電改については、この本に、詳しい。

 

 

果たして、林喜重大尉が登場していた紫電改は、引き上げられるのかどうか。

 

もう一つは、昭和20年(1945)7月5日、アメリカ軍戦闘機に搭載されたカメラが捕らえた四機の紫電改。

 

長崎県の大村湾から西彼杵半島にかけての上空(現在の琴海ニュータウン付近)で行われた空中戦の様子で、超低空飛行で、地形を利用して敵機を振り切ろうする紫電改を、アメリカ軍戦闘機が、次々と撃墜して行く様子が撮影されている。

この頃、343空は、長崎県の大村基地を拠点にしていた。

 

343空は、新鋭戦闘機「紫電改」を中心として、「ベテラン」「熟練」の搭乗員を集めて活躍をしたと言われていますが、実際、熟練搭乗員だったのは、一部の幹部だけだったよう。

また、「紫電改」は、新鋭戦闘機といっても、やはり、欧米の最新鋭戦闘機と比較すると、性能は、かなり見劣りがする上、低品質のオイルや、故障の多発で、カタログ値の性能を発揮することは、ほぼ、不可能だったよう。

また、燃料不足で、戦闘機搭乗員は、十分な訓練をすることも出来なかったのではないかと想像します。

ある本によれば、終戦の日の8月15日。

その時、343空に残された航空機の燃料は、後、2回も出撃をすれば、底をつく程度しか残されていなかったそう。

また、エンジンオイルは、戦前に、アメリカから輸入してあったものを太平洋戦争中は、使用し続けたそうで、終戦の頃、それもまた、底をつきかけていたということのよう。

代替品も作られていたようですが、当然、品質が悪く、あまり役に立たなかったという話。

 

それでも、搭乗員たちは、果敢に、空に上がり、敵機と戦い続けた。

7月5日、撃墜をされた紫電改を操縦していたのは、誰なのか。

343空に所属する隊員だと思いますが、氏名は、分からないものなのでしょうかね。