戦国時代、敵に対して、圧倒的な大軍を有して、有利な立場にあったはずの総大将が戦死をしたという合戦が、二つ、あります。
その一つが、今川義元が戦死をした「桶狭間の戦い」であり、もう一つが、龍造寺隆信が戦死をした「沖田畷の戦い」です。
基本的に、戦国時代に起きた合戦の様相は、江戸時代に書かれた「軍記物」による創作で、実際に、どのような戦闘が行われたのかということは、よく分かっていないというのが実情です。
そのため、「圧倒的に有利なはずだった軍の総大将が戦死をする」という失態を演じてしまった今川義元、龍造寺隆信には、いわゆる「因果応報」、つまり、「圧倒的に有利なはずだった総大将が戦死をする」には、それなりの理由があったはずと考えられ、今川義元、龍造寺隆信の二人には、その「個性」に、原因があったと、創作物語が作られたものだと考えられます。
例えば、今川義元の場合は、「貴族趣味の軟弱な武将」で、戦争に疎かったために戦死をしてしまったということ。
龍造寺隆信の場合は、「猜疑心が強く、残酷な性格で、家臣に人望が無かった」ために戦死をしたということ。
しかし、今川義元については、確かな史料による復権が進み、「貴族趣味の軟弱な武将」ではなく、武田信玄、北条氏康といった戦国大名と互角に渡り合った名将という評価が、今は、定まっているものと思います。
そして、「桶狭間の戦い」に関しても、様々な真相究明が行われ、実際に、どのような経緯で、戦闘が行われたのか、かなりの部分、明らかになって来ている。
しかし、龍造寺隆信に関しては、地方の一戦国大名ということで、世間的な人気が高い訳でも無いためか、その研究、復権が、全く、進んでいない印象です。
そして、「沖田畷の戦い」に関しては、ほぼ、江戸時代の軍記物に書かれたものから、何も、研究が進んでいない状態なのではないでしょうか。
さて、「沖田畷の戦い」について。
この本から。個人的推測も交えながら。
実は、当時の史料の中に「沖田畷」と書かれているものを、確認することは出来ないそうですね。
江戸中期、寛延年間(1748~1751)に成立したと言われる「豊薩軍記」に「沖田畷」という言葉が登場する。
また、同じく、江戸中期に成立した「葉隠」にも、「沖田太原」という言葉があり、「沖田畷」という地名は、江戸時代中期に成立をしたと考えられるということ。
ここから想像出来ることは、本当に「沖田畷」で、戦闘が行われたのかどうか、と、言うことですよね。今川義元が戦死をした「桶狭間」も、江戸時代の軍記物では「桶狭間という狭い場所に、今川義元は、陣を置いていた」ということになっていましたが、今では、そうではないということが確定している。
現在の龍造寺隆信のイメージに、大きな影響を与えたと思われる川副博の著書に、「沖田畷戦陣図」と書かれた図が掲載されているものの、合戦の名前は「島原の陣」と書かれているそうです。
恐らく、ここから「沖田畷の戦い」という言葉が、生まれたのだろうと思われます。
龍造寺隆信は、天正6年(1578)頃から、島原半島にも勢力を伸ばします。
有馬晴信たち、島原半島の国衆は、龍造寺隆信に従わない姿勢を見せますが、一度、隆信の下に屈することになる。
しかし、天正10年(1582)、有馬晴信が、千々石城を攻撃し、龍造寺隆信に反旗を翻す。
この有馬晴信に同調し、龍造寺隆信から離れる島原の国衆たちも出て来る。
そして、有馬晴信は、肥後国八代に居た島津義弘に救援を求めた。
島津義弘は、山田有信、蒲田政広を派遣して、状況を確認。
11月20日、島津義弘は、川上久隅らの軍勢を、島原半島に派遣する。
この島津軍の援軍は、深江で、龍造寺軍と交戦。更に、有馬晴信と協力し、千々石城の攻撃に加わる。
この頃、筑後の国衆、田尻鑑種も、八代の島津氏に救援を依頼していた。
当時、田尻鑑種の鷹尾城は、龍造寺軍に包囲されていたが、龍造寺軍は、それほど、強力なものではなく、鑑種は、海上からの物資の輸送を、島津氏に依頼している。
肥後国では、隈本城の島津軍が、日平城を攻撃し、更に、霜野城に向かう計画を立てる。
これに対して、龍造寺軍は、高瀬に在陣し、島津軍を迎え撃つ態勢を整えていた。
有馬晴信の要請に応じて、積極的に活動を始めた島津氏ですが、龍造寺隆信が、これに対して、直接、対応をしようとした様子は、一次史料からは見られないようです。
理由としては、この当時、龍造寺隆信は、秋月種実と連携して、筑前国、筑後国での軍事活動に力を入れていたためと思われる。
この頃、秋月種実は、大友氏の内部混乱に乗じて、筑前国、筑後国、豊前国に、積極的に攻勢をかけていた。
天正9年(1581)、龍造寺軍、秋月軍が、豊後、筑後の国境にある針目山に姿を現わし、大友義鎮は、英彦山に、軍勢を派遣している。
実は、龍造寺隆信は、家督を政家に譲った後、須古城に移ったと言われていますが、一度、須古城に移ったものの、筑後国、肥後国などの混乱に対処をするため、本拠地である村中城に戻り、政家と共同で、政治に当たっていたのではないかということ。
やはり、政家に全面的に政治を任せるのは、まだ、心許ないという意識があったということなのか。
筑後国では、田尻氏が、島津氏の支援を受けて、頑強に抵抗。
肥後国では、八代、隈本に島津軍が居て、攻勢を強めていた。
肥前国島原では、一時、島津軍は撤退したそうですが、有馬晴信の抵抗は続いている。
龍造寺隆信は、これら、多方面の敵に対処をしなければならなかった。
天正11年(1583)9月、秋月種実が、島津氏に、龍造寺氏との和平を提案している。
これは、島津氏を「九州之守護」とし、秋月氏、龍造寺氏は、島津氏に従属し、共に、大友氏を討とうというもの。
しかし、この和平案を、秋月種実が、龍造寺隆信に伝えた一次史料は、確認されていない。
当然、龍造寺隆信が、この和平案に、どのように反応したのかも分からないということ。
この頃、秋月種実は、大友軍の立花道雪、高橋紹運の攻勢にさらされていて、龍造寺隆信とは連絡が取れなかった可能性もあるということ。
天正12年(1584)1月、島津氏は、島津家久を総大将に、島原への軍勢の派遣を決定する。
これに対して、龍造寺隆信は、自ら、島原に出陣をすることを決める。
本来なら、当主である龍造寺政家が、総大将として出陣をするべきところを、なぜ、隆信は、自ら、出陣をすることを決めたのか。
一つは、やはり、政家では、島津軍を相手に戦うには力不足と、隆信が、判断をしたということになるのでしょう。
そして、一つは、天正11年(1583)12月に、鷹尾城の田尻氏が、龍造寺軍に降伏し、龍造寺隆信に、少し、余裕が出来たということ。
更に、島原半島攻略の中で、海賊衆の田雑氏を味方にして、有明海での海軍の活用が可能になっていたこと。
そして、上方で、柴田勝家を破り、天下人へと着々と進んでいた羽柴秀吉と、隆信が、安国寺恵瓊を通じて、連絡を取っていて、島津氏討伐の支持を得ていたこと。
個人的には、この、近い将来、天下人となるはずの羽柴秀吉との関係で、龍造寺隆信は、自らの出陣を判断したのではないかと思える。
これらの、いくつもの理由から、龍造寺隆信は、自ら、大軍を率いて、出陣をすることになる。
天正12年(1854)3月15日、島原半島に上陸をした島津軍は、有馬晴信と連携し、龍造寺側の、島原純豊の籠る浜の城を包囲する。
龍造寺隆信は、これに対して、海から浜の城に、物資を搬入しようとしたが、島津、有馬側の水軍に妨害される。
龍造寺隆信は、今度は、深江方面に向かうことにするが、ここでも、有馬晴信の水軍の妨害に遭う。
海上での戦いでは、龍造寺軍は不利と判断した龍造寺隆信は、陸路を進むことになる。
天正12年(1584)3月24日、ついに「沖田畷の戦い」が起こる。
しかし、龍造寺氏側に、この戦いを記した一次史料は残っていない。
島津氏側には、この戦いに参加をした武士が、いくらか、戦功を記した記録を残しているそうですが、それらは、近世に成立をしたもので、必ずしも、真実を記しているのかどうかは、分からない。
当時の戦いを客観的に記したものと言えば、イエズス会のもの。
1584年8月31日付、ルイス・フロイスの書簡から。
龍造寺軍は、2万5千。正確な数は、分からないが、島津、有馬連合軍よりも多かったことは確かのよう。
龍造寺隆信は、軍を、三つに分けて進軍。自らは、6人の担ぐ籠に乗っていた。
ちなみに、この「龍造寺隆信が、籠に乗っていた」という理由は、「不摂生による肥満で、馬に乗れなかったから」と言われることが多いですが、果たして、これは、事実なのか。
個人的には、龍造寺隆信の人格を貶めるために、江戸時代に創作されたもののような気がするところ。
龍造寺軍は、島津、有馬連合軍を包囲し、500挺の鉄砲を一斉射撃し、槍を持って、突撃を開始する。
島津家久は、龍造寺軍の攻撃に、2門の大砲を「キリシタンの船」に載せて、龍造寺軍に向けて艦砲射撃。龍造寺軍の一角を崩すと、島津軍も、突撃を開始した。
龍造寺軍、島津軍は、激しい乱戦となり、鉄砲に、銃弾を込める暇もなく、島津軍は、弓矢を中心とした攻撃に切り替える。
この乱戦の中で、島津軍の川上忠堅が、龍造寺隆信の籠に接近し、討ち取られることになる。
ちなみに、龍造寺隆信が戦死をしたのは、隆信に人望が無かったために、家臣たちが、籠を置いて逃げたためと言われるようですが、これもまた、江戸時代に、隆信の人格を貶めるために創作されたものでしょう。
また、島津軍は、「釣り野伏せり」という戦法を得意にしていたと言われていますよね。
この「沖田畷の戦い」で、龍造寺軍を破ったのも、「戸次川の戦い」で、長宗我部元親を中心にした豊臣軍を破ったのも、この「釣り野伏せり」という戦法で、わざと緒戦で敗北し、敵を引き込んで、壊滅させたと言われていますが、恐らく、これもまた、江戸時代の軍記物で創作された戦法で、史実ではないでしょう。
島津軍の大砲は、イエズス会が用意をしたものだそうです。
そして、イエズス会の船が、龍造寺軍を、砲撃することになる。
つまり、島津、有馬連合軍には、イエズス会が、協力をしていたということ。
また、龍造寺軍は、大量の鉄砲を用意していたことが記録されている。
しかし、激しい乱戦の中で、この大量の鉄砲は、ほぼ、役に立たなかったよう。
更に、龍造寺隆信は、海からの侵攻を重視していたようですが、制海権は、有馬、島津連合軍の方にあったので、龍造寺側の水軍は、思うように活動をすることが出来なかった。
島津水軍は、大いに活躍をし、龍造寺水軍の活動を阻止した。
更に、イエズス会の船も、島津、有馬連合軍に協力をして活動したようです。
この、海からの侵攻が不発となったのは、龍造寺隆信にとって、大きな誤算だったはず。
龍造寺隆信自身は、キリスト教を迫害していた訳ではなく、むしろ、好意的だったようです。
しかし、キリシタン大名の大友義鎮、有馬晴信らと敵対をする龍造寺隆信は、イエズス会にとっては、敵として、見えていたのでしょう。
以下、「沖田畷の戦い」に関する、個人的な推測です。
龍造寺隆信は、恐らく、この戦いには、絶対に、負ける訳には行かないと思っていた。
そのために、家督を継いでいた政家ではなく、隆信自身が、大軍を率いて出陣をしたのでしょう。
しかし、当初の予定だった、海からの侵攻は、敵の水軍の活躍と、イエズス会の敵対があり、上手く行かなかった。
これは、龍造寺隆信にとっては、大きな誤算だったと思われます。
そして、龍造寺隆信は、大軍を頼りに、有馬晴信、島津家久の軍に押し寄せた訳ですが、ここでも、隆信には、大きな誤算があったものと思われます。
それは、イエズス会の船からの艦砲射撃に、龍造寺軍が晒されたこと。
恐らく、船からの艦砲射撃というのは、龍造寺軍にとっては初めての経験で、兵士たちが混乱を起したのではないでしょうか。
そこに、島津軍、有馬軍が突撃をかけ、大乱戦となってしまった。
そのため、龍造寺軍が用意した、大量の鉄砲が、役に立たなくなってしまった。
総大将の龍造寺隆信が戦死をしたのは、「桶狭間の戦い」の場合と同じく、たまたま、総大将の居る場所に、乱戦の中、敵軍の兵士が到達することが出来たから、と、言うことになるのではないでしょうかね。
つまり、今川義元の戦死、龍造寺隆信の戦死は、その個人的人格や能力の関係ではなく、「運が悪かった」の一言に尽きると思います。
逆に、敵軍からすれば、「運が良かった」ということ。
と、思うところですが、どうでしょう。