現在の倉敷市中庄と呼ばれる地域に、かつて、銅の製錬所があったそうですね。

ネットで調べてみると、この地域で、銅が採掘されることは古くから知られていて、8世紀の、奈良の大仏を築造する時にも、ここで採掘された銅も使われたそうです。

江戸時代にも、銅の採掘は行われていたようですが、本格的な開発が始まったのは、明治時代に入ってから。

明治時代には、複数の資本による開発が進み、鉱区が、林立していたということ。

明治20年頃、三菱合資会社(現在の三菱マテリアル)が、一部の鉱区を買収し、この頃から、一帯は「帯江鉱山」と呼ばれるようになったそう。

しかし、三菱による開発は、上手く行かず、4年で、断念し、坂本金弥という人物に、鉱山を売る。

この坂本金弥が、鉱山の開発を成功させ、隣接する鉱区も買収する。

日本でも、五本の指に入る鉱山に成長させたそうです。

 

しかし、精錬所から出る煙害によって、周辺の山々の木々は枯れ、農作物にも被害が出るようになったそう。

また、周辺の川でも、生物が住めない環境になってしまう。

この頃、足尾銅山、別子銅山などでも、公害問題が起こり、世間を大きくさわがせることになった。

坂本は、周辺住民の反対運動を抑えることが出来ず、精錬所を、犬島に移転する。

 

1910年頃から、銅山の採掘量が低下し、坂本は、藤田組で、帯江鉱山と犬島精錬所を売却。

しかし、1919年、帯江鉱山、犬島精錬所は、操業を停止することになる。

 

帯江鉱山があった場所と言われる、ゴルフ場、自動車教習所に上がる坂道の入口近くの広場に、このような石碑がありました。

しかし、何が書かれているのか、全く、読むことが出来ない。

しかし、精錬所に関するものであるのは、確かではないでしょうかね。

 

そして、近くには、このようなものが。

これも、近くにあった精錬所に関連する遺構ということになるのでしょうかね。

 

近くには、熊野神社があります。

その熊野神社がある丘の麓に、このような看板がありました。

精錬所の煙害で、はげ山になったところに、ツツジが、生えたそうです。

 

こちら、熊野神社、北側の入口です。

立派な石灯籠がありますね。

 

さて、周辺を散歩していると、このようなものがありました。

 

金比羅宮の常夜灯です。

ここもまた、「金毘羅参り」のための街道だったということなでしょうかね。