さて、この本から。
肥前国を支配下に置いた龍造寺隆信の勢力拡大について。
龍造寺隆信は、よく「五州二島の太守」と言われます。
この言葉は、川副博氏が、使用したのが最初ということのようです。
これは、肥前、肥後、筑前、筑後、豊前の五カ国と、対馬、壱岐の二島を、龍造寺隆信が支配をしたということから来るものなのですが、果たして、これは、史実なのか。
天正年間、大友氏の勢力を肥前国から撤退させた龍造寺隆信は、肥前国の西部に侵攻を始めますが、同時に、肥前国の東部にも、攻撃を来り返していました。
この肥前国の東部で、大友氏の側について、龍造寺氏と対立をしていたのが、横岳氏です。
天正5年(1577)、大友義鎮は、筑後国柳川の蒲池氏に仲介をさせ、龍造寺隆信の横岳氏領への侵攻を停止させているそうです。
また、三根郡では、龍造寺氏、筑紫氏、横岳氏の間で、所領紛争が起こり、大友氏が介入をし、龍造寺氏に三根郡を放棄させることで、決着をしているそう。
一見、大友義鎮による肥前国の支配が続いているように見えますが、実際は、龍造寺隆信の攻勢は、止まらなかった。
天正6年(1578)、龍造寺隆信は、筑後国、肥後国、筑前国への侵攻を開始する。
大友義鎮は、西島城に筑後国衆を入れ、肥前国にも援軍を派遣。横岳氏への支援も進めている。
龍造寺隆信は、肥前、筑後の国境の筑後川沿岸に軍勢を派遣し、攻勢をかける。
天正4年(1576)、大友義鎮は、少弐政興を筑後国に派遣。検使の森宗智羅と協力し、龍造寺側の調略をするように、筑後の国衆に命じている。
筑後国は、室町時代、大友氏の支配下にあったが、この頃、すでに国衆たちは、大友氏に協力的ではなかったよう。
そして、ついに、肥前国の東部で、大友氏側として活動していた横岳氏が、龍造寺隆信に降伏する。
天正6年(1578)には、大友氏の日向国への侵攻に対して、龍造寺隆信は、島津氏と文書の交換をしている。
また、筑後国の田尻氏が、龍造寺隆信に起請文を指し出し、大友氏を裏切る。
天正6年(1578)11月、大友義鎮は、「耳川の戦い」で、島津氏に敗北。
同年12月、龍造寺隆信は、筑後国への侵攻を開始する。
これ以前、すでに隆信は、筑後の国衆、下蒲池氏、田尻氏、草野氏などを、味方につけていた。
この龍造寺隆信の筑後国侵攻と連携して、筑前国の秋月種実が、肥前国勝尾城の筑紫広門と連携し、大友氏側の岩屋城の攻撃を開始。
天正7年(1579)11月、龍造寺隆信は、筑後国山下城の上蒲池氏の蒲池鑑広を降伏させ、筑後国の南部を掌握。
隆信は、鍋島直茂に、筑後国の南部の統治を任せるが、筑後国内は、龍造寺派、大友派に分かれて、混乱が起こる。
天正9年(1581)5月頃、龍造寺隆信は、大友氏に寝返る様子があった、下蒲池氏の当主、蒲池鎮並を、佐賀に誘い出して謀殺。6月、蒲池氏の領地に侵攻し、蒲池一族を殺害する。
この出来事は、江戸時代の軍記物では「龍造寺家兼、龍造寺隆信が佐賀を追放された時に、両者を保護、更に、佐賀復帰の支援をし、度々、龍造寺氏を助けた蒲池氏を滅ぼした隆信の悪行」と記されていて、名高い。
しかし、一次史料からは、蒲池氏が、龍造寺家兼、隆信を助けたという事実を確認することは出来ず、なぜ、そういう話が生まれたのかは、不明ということ。
なぜ、龍造寺隆信は、蒲池氏の当主を謀殺し、一族を滅ぼしたのか。
これは、蒲池氏の大友氏への寝返りに、他の国衆たちが連動するのを恐れたためと思われる。
蒲池氏を滅ぼした後、隆信は、蒲池氏の本拠地だった柳川城に龍造寺家晴(鑑兼の子)を入れて、筑後国の南部の支配を任せる。
この、龍造寺隆信による蒲池氏の謀殺は、イエズス会の反発を呼んだ。
理由は、キリシタン大名の大村純忠が、この頃、龍造寺隆信に、佐賀で、謁見し、大村氏の人質が、佐賀に居て、彼らもまた、謀殺されるのではないかと警戒をしたためと考えられる。
実際、蒲池氏謀殺事件の直後、イエズス会のガスパル・コエリヨが、大村純忠と人質の処遇について、隆信と交渉をしている。
そして、イエズス会の記録に、龍造寺隆信は「残忍な暴君」として、記されることになったよう。
天正10年(1582)、鷹尾城の田尻氏が、龍造寺氏から離反。龍造寺隆信は、海陸から鷹尾城を攻略するが、この時、田尻氏は、肥後国に侵出をしていた島津氏に助けを求めることになる。
更に、この頃、島原半島の有馬晴信も、島津氏に救援を要請。
龍造寺隆信と、島津氏の対立が始まることになる。
天正7年(1579)、筑後国への侵攻が難航する中で、龍造寺隆信は、肥後国への侵攻も開始する。
これは、当時、隆信と対立していた筑後国、上蒲池氏への攻撃と関連していて、隆信が、肥前国の北部に侵攻し、小代氏、城氏らが、龍造寺隆信に起請文を差し出し、龍造寺氏側につくと、上蒲池氏も、隆信に降伏することになる。
しかし、龍造寺隆信は、筑後国南部、肥後国北部に侵攻をしたものの、その地域を、完全に掌握をしたとは言いがたい状況が続く。
龍造寺氏につく者、大友氏につく者が入り乱れ、混沌をした状況が続くことになる。
この頃、龍造寺隆信は、嫡男の政家に、龍造寺家の家督を譲る。
しかし、隆信は、引退をした訳ではなく、実権は握り続け、政家との二頭体制が始まる。
天正9年(1581)、龍造寺政家が、肥後国に出陣。
これは、筑後国の下蒲池氏への攻撃と連携をしたものと思われる。
この頃、肥後国の北部の隈部氏、合志氏、城氏、鹿子木氏など、肥後国の南部の志岐氏、相良氏などが、龍造寺氏に起請文を提出している。
肥後国の南部の国衆は、島津氏の侵攻に対抗するため、龍造寺氏に起請文を提出したと思われるが、天正10年(1582)には、彼らは、早くも、龍造寺氏から離反し、島津氏に従属。島津氏は、肥後国の北部への攻勢を強める。
更に、筑後国の田尻氏、肥前国の有馬氏が、島津氏に救援を求め、島津氏、龍造寺氏の対立に発展して行くことになる。
天正7年(1579)、龍造寺隆信は、筑前国にも侵攻。
これには、筑前国の北西部の原田氏の動向が関係をしていると思われる。
原田氏は、「耳川の戦い」で、大友氏が島津氏に敗北すると、龍造寺隆信に起請文を提出し、味方になることを示す。
しかし、原田氏は、大友氏の軍勢との戦いで敗北。
原田了栄の子、鎮永は、肥前国の北部の草野氏に入っていて、原田氏、草野氏が、大友氏側に寝返ると、面倒なことになるので、龍造寺隆信は、筑前国に侵攻し、原田氏を支援したと思われる。
同年7月、龍造寺隆信は、筑前国早良郡に侵攻。安楽平城を攻撃し、落城させる。原田了栄は、本拠地の高祖城を、隆信に差し出す意思を示す。
江戸時代の軍記物では、その後、龍造寺隆信は筑前国を平定したと言われていますが、一次史料によると、隆信が、これ以上の軍事活動を筑前国で展開した様子は見えない。
恐らく、龍造寺隆信の筑前国への侵攻は、早良郡の平定に留まると思われる。
以上のことから、龍造寺隆信は、筑後国、肥後国、筑前国への侵攻をしているが、その国々の支配権を確立することは出来なかったと思われる。
また、軍記物では、豊前国も平定したことになっていますが、龍造寺隆信が豊前国に侵攻をしたこと自体を、一次史料からは、確認出来ない。当然、龍造寺隆信が、対馬、壱岐の支配をした形跡も無い。
つまり、龍造寺隆信は「五州二島の太守」では無かった、と、言うことになる。
龍造寺隆信は、政家に家督を譲った後も実権は持ち続けましたが、自ら、軍を率いて、最前線に出るということは、無くなっていたようです。
しかし、島津氏が北上を始め、対立が、激化をする中で、龍造寺隆信は、運命の「沖田畷の戦い」に出陣する。