さて、この本から。
龍造寺隆信が、肥前国の一国衆から、の戦国大名に成長するまで。
龍造寺隆信が、水ヶ江龍造寺家の家督を継いだ訳ですが、それから間もなく、本家である村中龍造寺家の当主、龍造寺胤栄が死去。
隆信は、村中龍造寺家の家督も継ぎ、龍造寺家の当主となる訳ですが、その直後、混乱が起こります。
それは、一度、家督を退いた龍造寺鑑兼との家督争い。
天文20年(1551)、大内義隆が、家臣の陶晴賢の謀反によって自害。この大内義隆の死が、水ヶ江龍造寺家の家督に影響をしたと思われる。
天文22年(1553)頃に発給されたと思われる龍造寺鑑兼の書状によると、鑑兼は、一度、隆信を追い落としたことを謝罪し、佐賀郡に戻れるよう、隆信の母、慶聞に取りなして貰えるように依頼をしている。
つまり、龍造寺鑑兼は、家督を奪い返すために、挙兵し、一度、隆信を佐賀から追放したものの、隆信は、再び、佐賀を奪い返し、逆に、鑑兼を追い落としていたことが分かる。
再び、家督を奪い返した龍造寺隆信は、少弐冬尚の討伐に動き出す。
永禄2年(1559)1月、龍造寺隆信は、江上氏、神代氏らと共に、少弐冬尚を滅亡に追い込む。
この少弐冬尚の滅亡には、大友義鎮の関与があったと思われる。
天文23年(1554)、大友義鎮は、肥前守護に任命されていて、肥前国の支配を確立するため、肥前国の国衆に、少弐冬尚を攻撃させたと考えられる。
少弐冬尚が滅ぼされた頃、大友義鎮は、豊前国への出兵を進めていた。そのため、義鎮は肥前国の国衆を使って、少弐冬尚を滅ぼさせたと考えられる。
龍造寺隆信が家督を継いだ頃、龍造寺家は、佐賀郡、小城郡の二郡に所領を持っていた。
そして、隆信は、周辺の国衆との抗争を始め、勢力の拡大に乗り出す。
佐賀郡の空閑氏、肥前国西部の西郷氏、筑前国早良郡の曲淵氏、筑前国高祖の原田氏などと関係を結び、神代氏と対立。
天文20年(1551)、大内義隆を滅ぼした陶晴賢は、筑前国南部の秋月種方と連絡を取り、筑前国に侵出するように、隆信に命じていた。
更に、この頃、隆信は、京都の勢力にも接触をしている。
当然、この龍造寺隆信の独自の活動は、肥前国の支配を目論む大友義鎮の反感を招く。
大内義隆が滅亡した後、大友義鎮は、筑前国、豊前国に支配を広げるが、永禄年間(1558~1570)には、毛利元就が、北九州に侵攻を始め、激しく、対立をする。
そして、永禄5年(1562)、筑前国の支配を任されていた高橋鑑種が、毛利氏に寝返る。
更に、筑前国の秋月種実も、毛利氏に付き、騒乱は、北九州一帯に広がる。
この大友氏、毛利氏の抗争に乗じて、龍造寺隆信は、勢力拡大のために活動をする。
永禄9年(1556)、藤津郡に進出し、島原半島の有馬氏と対峙。
大友義鎮の仲裁を無視して、神代氏、江上氏との対立も深める。
永禄11年(1558)、毛利氏側の、吉川元春、小早川隆景が、豊前国に入り、筑前国に侵攻。
永禄12年(1559)2月、大友義鎮は、筑後国に出陣。
義鎮は、戸次鑑連を主将に、筑後、肥前の国衆を動員で、肥前国で軍を展開させている。
龍造寺隆信は、神崎郡に軍を派遣。肥前国田手村で、龍造寺軍、大友軍が交戦。龍造寺軍は敗北する。
同年閏5月、秋月種実が、大友氏に降伏。
同年12月、吉川元春、小早川隆景が、北九州から撤退。
永禄13年(1560)4月、大友軍は、隆信の本拠地である村中城の東の巨勢村に軍を展開。しかし、龍造寺軍に敗北し、撤退する。
大友義鎮は、肥前国の国衆、神代氏、小田氏、鶴田氏、後藤氏らを動員。更に、筑前国の国衆も動員しようとしている。
大友義鎮は、筑後国の国衆、田尻氏、蒲池氏らも動員し、有明海から、水ヶ江城の攻撃を目論み、龍造寺軍と交戦をしている。
大友義鎮は、北九州各地の国衆を動員し、龍造寺隆信に圧力を掛けようとしている。
龍造寺隆信は、ほぼ、孤立無援の状態だったが、大友軍を相手に善戦。
理由は、龍造寺隆信の攻撃に参加した大友軍は、大友義鎮の直属の軍ではなく、その地域の国衆で、いわば、烏合の衆。
この永禄13年(1560)の大友軍の肥前国への侵攻で、指揮を取ったのは「大友八郎(親貞)」と、江戸時代の軍記物では言われていますが、この「大友八郎」は、大友義鎮との関係が、よく分からず、一次史料からは、誰が、大友軍の指揮を取っていたのか明確ではない。
そして、8月、「今山の戦い」が起こる訳ですが、この「今山の戦い」は、大友氏、龍造寺氏の一連の戦いの中の、局地戦の一つに過ぎなかった。
ちなみに、この「今山の戦い」で、「大友八郎」を討ち取ったと書かれた書状は、偽書であることが確認されている。
つまり、「大友八郎」は、実在をしていなかった可能性が高い。
この大友氏、龍造寺氏の抗争で、龍造寺隆信は、大友義鎮に勝利をしたのか。
研究者の間では、意見が分かれているそうです。
この「今山の戦い」で、龍造寺氏の勝利の後、大友氏と龍造寺氏は和睦をし、大友軍は撤退をする。
その後も、大友義鎮による肥前国の支配は、続いたのかどうか。
大友軍の撤退の後も、大友義鎮は、肥前国の国衆に影響力を行使しようとしている。
しかし、龍造寺隆信は、独自の活動を再開し、神代氏、江上氏など、自身と同等の立場だった国衆たちを、配下に取り込んで行くことになる。
つまり、大友軍を撤退させたことで、肥前国では、龍造寺隆信の大友氏に対する優位性が確認されたもと思われる。
元亀2年(1571)2月、神代長良が、龍造寺隆信に起請文を出し、配下に入る。
元亀3年(1572)、江上武種が、龍造寺隆信に降伏し、隆信の子、家種を、養子とする。
龍造寺隆信は、大友氏についた肥前国の国衆に対して、攻撃を開始する。
肥前国の国衆である大村氏、有馬氏は、元亀元年(1570)まで、毛利氏と通じていたが、イエズス会の仲介で、大友氏の側に転じていた。
龍造寺隆信は、肥前国の西部に侵攻を開始。
須古城の平井氏を攻略。松浦郡に侵攻。後藤氏の内紛に介入。藤津、彼杵郡の平定。島原半島への進出。と、龍造寺隆信の攻撃を続きます。
天正元年(1573)、龍造寺隆信は、須古城の平井経治を攻略し、人質を取る。
この頃、後藤氏は、内紛を起しつつあり、松浦郡の国衆たちは、松浦郡、小城郡の境に侵攻を始めていた。
天正2年(1574)1月、隆信は、松浦郡の草野氏を攻撃、続いて、獅子ヶ城の鶴田氏を攻撃し、平原で、鶴田氏の軍勢を破る。
龍造寺隆信は、その後、一時、村中城に戻る。これは、後藤氏の内紛に対応するため。
隆信は、この後藤氏の内紛に介入し、後藤氏を配下に収める。
これにより、隆信は、武雄方面の平定に成功。
その間、松浦郡の松浦氏、草野氏らが、隆信に起請文を提出。
天正3年(1575)、隆信は、再び、獅子ヶ城の鶴田氏の攻撃を開始。翌年、鶴田氏は、龍造寺隆信の配下となる。これにより、隆信は、唐津方面を平定。
天正4年(1576)、隆信は、伊万里方面に進出。龍造寺軍を率いたのは、鍋島清房(直茂の父)で、浜城を落として、伊万里方面を平定。
龍造寺隆信は、松浦郡を平定すると、続いて、藤津郡に侵攻。事前に、藤津郡に侵攻を始めていた弟の長信と共に、嬉野氏を配下に収め、藤津郡を平定する。
彼杵郡の大村純忠は、天正4年(1576)に、隆信に起請文と人質を指し出し、配下となる。
彼杵郡を平定した隆信は、伊佐早方面に手を伸ばし、天正5年(1577)、西郷氏が、起請文を出し、隆信の配下となる。
天正6年(1578)、隆信は、伊佐早から、高来郡の島原半島に侵攻を開始。
しかし、彼杵郡で、反龍造寺勢力が蜂起し、隆信は、敗北。
同年6月、龍造寺隆信は、高来郡に、再び、侵攻するが、有馬晴信に敗北。
一時、龍造寺隆信の西肥前侵攻は頓挫するが、天正7年(1579)、有馬氏の家臣、千々石氏、安富氏が、有馬晴信を裏切り、龍造寺隆信の側につくため、起請文を差し出す。更に、西郷氏、深掘氏らの圧力や、前年、大友義鎮が、「耳川の戦い」で敗北したこともあり、有馬晴信は、龍造寺隆信の配下に入る。
有馬晴信が、龍造寺隆信に抵抗をしたのは、肥前国の東部の国衆、横岳氏と手を組み、大友氏と連携をしていたためと思われる。
天正元年(1573)から天正7年(1579)にかけて、龍造寺隆信は、現在の佐賀県、長崎県にまたがる肥前国西部の領地の支配権を得る。
これによって、龍造寺隆信は、国衆から戦国大名に成長したと言える。