さて、龍造寺氏の「中興の祖」と言われる「龍造寺家兼」と、その曾孫、龍造寺隆信の家督相続について、この本から。
龍造寺家兼は、龍造寺氏の「中興の祖」として有名です。
この龍造寺家兼は、龍造寺氏の分家である水ヶ江竜造寺家の当主です。
本家である村中龍造寺家が、力を落とす中で、家兼は、実質上、龍造寺家のトップとなる。
この龍造寺家兼の活躍で、龍造寺氏は、少弐氏の重臣として頭角を現わし、大内義隆の侵攻を、「田手畷の戦い」で、破る。
その後、龍造寺家兼に目をつけた大内義隆は、家兼を味方につけようと働きかける。
その結果、龍造寺家兼の台頭を快く思わない少弐氏の重臣たちは、龍造寺家兼の裏切りを口実に、龍造寺家兼の一族を謀殺。
一族の多くを殺害された家兼は、かろうじて筑後国に逃げ延び、蒲池氏の支援を受けて、佐賀に復帰。
そして、曾孫の隆信を家督に就け、亡くなることになる。
果たして、この龍造寺家兼の経歴は、事実なのか。
龍造寺家兼は、享徳3年(1454)に、龍造寺康家の子として生まれたと言われる。
この龍造寺家兼は、分家である水ヶ江竜造寺家を創始し、本家は、村中龍造寺家と呼ばれるようになる。
村中龍造寺家の家督は、家兼の兄、胤家から、弟の家和、その子、胤和、胤久に継承されたと言われていますが、一次史料からは、それを確認することは出来ない。
一次史料に登場するのは、胤久からであり、龍造寺胤久が、村中龍造寺家の当主であったことは、間違い無い。
龍造寺胤久は、永正年間に村中竜造寺家の家督を相続し、千葉氏の家臣として活動していたことが確認出来る。
大内氏、少弐氏の抗争は、永享3年(1530)から始まると言われる。
その前年、永享2年(1529)、水ヶ江龍造寺家の龍造寺家門は、村中龍造寺家の龍造寺胤久に対して、起請文を作成している。
この龍造寺家門は、龍造寺家兼の子で、家兼は、この家門を重用し、二頭体制を取っていたものと思われる。
永享3年にも、家兼は、家門と連名で、胤久に、起請文を発給。
永享4年(1531)、千葉興常は、龍造寺胤久に対して、「軍勢の指揮を、家兼、家門に任せることは、やむを得ない」という内容の書状を発給している。つまり、少弐氏側として大内氏側と戦っていたと思われる千葉興常と共に、龍造寺軍も参加し、その指揮を、龍造寺家兼、家門の二人が執っていたと思われる。
「田手畷の戦い」というものが、実際に、行われたのかどうかは、一次史料からは確認することは出来ない。
しかし、龍造寺軍が、少弐氏側として参戦し、その指揮を、龍造寺家兼、家門が執っていたことは、確認出来る。
そして、水ヶ江龍造寺家の一族の多くが、少弐氏の重臣により謀殺された事件。
この事件では、少弐氏の重臣、馬場頼周が主犯とされ、家兼の子、家門、家純、家門の子、家泰、家純の子、周家、頼純が殺害される。
江戸時代の軍記物では、この謀殺は、龍造寺家兼と少弐氏重臣たちとの勢力争いの結果ということになっていますが、それは史実なのか。
天文年間(1532~1555)、大内氏の軍勢が九州に侵攻。大友氏、少弐氏との戦いが始まる。
これに、肥後国の菊池氏も、大内氏側として呼応する。
龍造寺氏は、この北九州の騒乱の中で、少弐氏に味方をするように要請を受けるが、一次史料からは、龍造寺氏が、どのような活躍をしたのかは分からないということ。
天文5年(1536)、大内氏の攻勢の中で、少弐資元が自害し、千葉氏も没落することになる。
天文7年(1538)、大内氏と大友氏が和睦。
この頃、村中龍造寺家は、龍造寺胤久から、胤栄に家督が移る。
天文12年(1543)、少弐冬尚に従属する国衆の一人として、龍造寺一族の名前が確認出来る。
さて、一次史料から、天文年間、龍造寺氏は、少弐氏の配下にあったことは、確かに、確認出来る。
しかし、ならば、なぜ、少弐冬尚は、龍造寺家兼の水ヶ江龍造寺の一族を、謀殺しなければならなかったのか。
この謀殺事件が起きたのは、天文14年(1545)。
江戸時代の軍記物によれば、龍造寺氏が、大内氏に味方をしたと見られたこと、そして、龍造寺家兼への少弐氏重臣たちの妬みが、この謀殺の原因となっている。
しかし、一次史料からは、天文年間に、龍造寺氏が、少弐氏を裏切ったとは考えられない。
さて、天文8年に発給された、後奈良天皇が、龍造寺胤久を、大和守に任じた文書があるそうです。
この文書には、万里小路惟房の名前があり、実は、この惟房の妹、貞子が、大内義隆の妻となっている。
このことから、龍造寺胤久の大和守の任官は、大内義隆の吹挙だったと考えられる。
この文書が発給される以前、大内氏と大友氏は、和睦をしていて、龍造寺胤久は、大内氏との関係も、構築していたと考えられる。
少弐資元は、大内氏との戦いで自害に追い込まれ、大内氏は、少弐氏にとって、宿敵ということになる。
つまり、少弐冬尚は、大内氏との繋がりを深め始めた、龍造寺氏を討伐することにしたと考えられる。
これは、水ヶ江龍造寺家ではなく、本家の村中龍造寺家も含めた、龍造寺一族の討伐が目的だった可能性が高い。
そして、水ヶ江龍造寺家の一族の多くが殺害され、村中龍造寺家の龍造寺胤栄は、筑前国に逃亡し、大内氏に庇護されることになる。
この謀殺を生き残った龍造寺家兼は、江戸時代の軍記物では、蒲池氏の支援を受け、佐賀に復帰したことになっていますが、実際は、龍造寺家が、少弐氏への反撃を開始する後ろ盾になったのは、大内氏で、その中心は、龍造寺家兼ではなく、龍造寺胤栄であったと考えられる。
この龍造寺胤栄の反撃に、龍造寺家兼が、どのような活躍をしたのか、一次史料からは分からないということ。
少弐氏を破って、天文16年(1547)、佐賀に復帰した龍造寺胤栄は、大内氏によって、肥前国代官に任命されている。
天文17年(1548)、龍造寺胤栄は、死去。
そして、龍造寺隆信が登場する。
龍造寺隆信の家督の継承は、曾祖父である龍造寺家兼の影響によるものと、江戸時代の軍記物は記していますが、果たして、それは、事実なのか。
龍造寺家兼は、子の家門を重用していました。
しかし、少弐氏の攻撃によって、天文14年(1545)、家門と、その子、家泰が、殺害される。
実は、一次史料によると、水ヶ江龍造寺家の家督は、家泰の弟、龍造寺鑑兼が継いだ可能性が高いよう。
しかし、この龍造寺鑑兼は、家督を降ろされ、龍造寺隆信が、家督に就く。
一次史料からは、龍造寺胤栄、家兼の二人は、鑑兼の方を支持していたようです。
しかし、家督は、龍造寺隆信が奪い取る形になった。
龍造寺隆信は、享禄2年(1529)に生まれたとされています。
幼少期に出家をしていたことは、イエズス会の記録からも確認出来る。
村中城の南にある宝琳院には、龍造寺隆信が、この寺の住職だったことを示す塚が、今でも残っているということ。
当時のエピソードは、様々なものがありますが、当然、一次史料からは、確認出来ない。
隆信が、少弐氏による攻撃で、龍造寺一族の多くが殺害される中で、生き残ることが出来たのは、出家をし、僧侶であったからという理由が考えられる。
つまり、龍造寺隆信は、一生、僧侶でいることが前提だった可能性が高い。
しかし、龍造寺隆信は、ます、水ヶ江龍造寺家の家督を継いだ。
その経緯を示す一次史料は無いようで、理由は、推測をするしかない。
確かに分かっていることは、水ヶ江龍造寺家は、家督は、当初、鑑兼が継いだものの、最初から、隆信もまた、相続分を持っていたそうです。
つまり、水ヶ江龍造寺家は、鑑兼、隆信の二人に、分割相続をされていたということになる。
そして、天文19年(1550)、龍造寺隆信は、大内義隆の「隆」の字の偏諱を受け「隆信」と名乗る訳ですが、隆信の家督相続には、大内義隆の介入があった可能性もある。
そして、龍造寺家重臣の中にも、鑑兼ではなく、隆信を支持する人物が多かったのかも知れない。
いよいよ、戦国大名、龍造寺隆信の登場となります。