戦国大名「龍造寺隆信」については、以前から、大きな関心を持っています。
しかし、この「龍造寺隆信」に関する本については、一般書としては、江戸時代以降に編纂された「軍記物」をベースにした本しか見かけない。
江戸時代に編纂された、戦国時代を舞台にした、いわゆる「軍記物」の類い。
個人的には、創作の部分が、かなり多く、史実とは、かけ離れたものと思っている。
特長としては、江戸時代に、大名家として残らなかった戦国武将は、この「軍記物」で、酷評され「悪者扱い」をされることになる。
逆に、江戸時代に大名として残った家は、実質的に、その祖に当たる人物は、必要以上に「礼賛」され、「とても優れた人物」として、描かれることになる。
どちらも、多くが、創作です。
そして、この「龍造寺隆信」は、「酷評」をされることになった戦国大名の一人。
そこで、「軍記物」の影響を排除し、同時代に書かれた「一次史料」による本が出版されないものか。
ずっと、思っていたのですが、ようやく、この本が、発売されました。
この本から、内容を紹介します。
この本は、徹底的に、「後世の編纂物」による影響を排除し、「一次史料」に残された龍造寺氏の真実の姿を、明らかにしようというもの。
まずは、龍造寺氏研究の問題点。
戦国時代の九州は、大友氏、島津氏、龍造寺氏の、三つの勢力に分かれることになりますが、大友氏、島津氏に比べて、龍造寺氏の研究量は、圧倒的に、少ないということ。
龍造寺隆信に関する評伝は、昭和42年に、川副博という人の書いた「日本の武将45・龍造寺隆信」の一冊があるだけ。
平成18年に、子息に当たる川副義敦が、「五島二州の太守・龍造寺隆信」と改題し、加筆、修正を加えて出版。
現在の龍造寺隆信のイメージは、この本によって、形成されたと言える。
しかし、この本は、龍造寺氏の基本動向は、近世の編纂物、つまり、江戸時代以降に書かれた軍記物が元になっている。つまり、龍造寺隆信の実像を記しているとは言いがたい。
龍造寺氏に関しては、1990年代から、ようやく、近世の編纂物を脱して、一次史料を主体とした研究が見られるようになる。
この研究の中から、龍造寺隆信が、二頭政治を行い、円滑な政権交代を進めたこと、天正6年の大友氏の敗戦を契機に、龍造寺氏が、大友氏領国を席捲し、周辺の国衆を服属させた経緯を明らかにしている。
しかし、肥前国を巡る大友氏、龍造寺氏の対立は、どちらが勝利をしたのか、また、大友氏による肥前国の支配が、その後も続いたのかどうか。研究者によって、様々な見解があり、未だ、決着がついていないということ。
次に、なぜ、龍造寺氏に関する研究が、大きく遅れているのか。
一つは、龍造寺氏を研究することに、意味を見いだすことが難しいということ。
大友氏、島津氏に関しては、近年、海外との交易や、宗教との関わりで、様々な研究が進められている。
しかし、龍造寺氏は、海外との交流や、宗教との関わりが、積極的に行われたことを示す史料が無い。
一つは、龍造寺氏を研究するに当たって、その研究方法に行き詰まることが多いということ。
すでに、整理をされている龍造寺氏関連の史料には、すでに充実した研究があり、それを越える効果を得ることが難しいということ。
また、龍造寺氏関連の文書には、無年号のものが多く、その整理が進んでいないために、まず、その史料の整理を始めなければならない上に、龍造寺氏に関しては、未だ、発見されていない史料も多くあると考えられ、未だ、龍造寺氏に関しては、史料環境の整備を必要とする段階にあるということ。
このように、龍造寺氏の一次史料に基づく研究は、まだまだ、道半ばと言える。
つまり、龍造寺氏の実像は、未だ、明らかになっていない。
さて、龍造寺氏の祖は、藤原季家という人物。
この藤原季家は、高木南二郎季家とも言われますが、高木氏は、「刀伊の入寇」を撃退した藤原隆家の末裔。
高木氏と藤原季家の関係には、研究者によって、いくつかの説があるようですが、一次史料からは、はっきりしたことは分からないそう。
この藤原季家が、「源平の戦い」の時に、源氏側として活躍。
その恩賞として、肥前小津東郷内龍造寺田畑の地頭に任じられる。
建久5年(1194)、藤原季家は、改めて、同地の地頭に任じられている。
この藤原季家の活動は、安貞元年(1227)まで続き、その後、子息の藤原季益が、後を継ぐ。この藤原季益は、長瀬南三郎と名乗っているそうです。これは、龍造寺村の北にある長瀬を拠点としたためと考えられる。
蒙古襲来の頃、龍造寺小三郎左衛門が登場する。
この小三郎左衛門が、本領である「龍造寺」を名字にした、最初の人物。
「文永の役」での活躍は、史料からは、定かではないようですが、「弘安の役」では、具体的な活躍が確認出来るそう。
この蒙古襲来の時の活躍で、龍造寺氏は、肥前国米多続命院、筑前国比井郷内の地を与えられる。
蒙古襲来の後、龍造寺氏の所領を維持していたのは、持善という人物。
小三郎左衛門と、持善の関係は、史料からは、分からない。
この持善は、正和年間(1312~1316)に死去。
その遺領を巡って、一族の中で、相論が起こります。
鎌倉時代の龍造寺氏の系図や、惣領が、どのように受け継がれたのか、史料からは、分からないということ。
しかし、藤原季家が与えられた所領を、龍造寺一族が、守り続けたことは、間違いない。
南北朝時代、龍造寺氏は、一貫して、足利尊氏側として活躍をしている。
「観応の擾乱」が始まると、一時、足利直義側として、足利直冬が、九州に上陸し、尊氏側の九州探題、南朝側の菊池氏、直義側の足利直冬の三つ巴の戦いになりますが、龍造寺一族の中には、足利直冬に味方する者も出て来る。
しかし、足利直冬が、九州から撤退すると、龍造寺一族は、また、北朝側として、南朝勢力と戦うことに。
九州では、一時、南朝側、懐良親王の征西府が、九州の大部分を支配しますが、その間も、龍造寺氏は、北朝側として、戦い続けたよう。
永和2年(1376)、龍造寺家貞は、本領分である肥前国龍造寺村惣領を取り戻すことに成功。
明徳2年(1391)、家貞の子息、龍造寺家治が、今川貞臣によって、若狭守に吹挙される。
室町時代、肥前国の守護は、どうなっていたのか。
九州探題の渋川氏、鎌倉時代に小城郡の地頭に任命され、その地に下って来た千葉氏、そして、少弐氏の、三つの勢力が入り乱れ、肥前国守護は、明確ではなかったということ。
そして、その下にあった龍造寺氏など、肥前国の国衆の動向も、また、明らかになっていない。
南北朝合一の明徳年間(1390~1394)から、戦国期の文明年間(1469~1487)までの間、龍造寺氏に関する史料は、極端に、少なくなるということ。
応永4年(1397)、少弐貞頼の書状で、龍造寺六郎が、少弐氏に味方をしたことを賞されている。
応永7年(1400)、この頃、九州探題渋川氏は、少弐氏を相手に、有利に戦いを進めていて、龍造寺氏は、渋川氏の配下にあったと思われる。
長享元年(1487)、大内氏によって筑前国を追われ、肥前国に拠点を置いていた少弐氏が、筑前国に向けて反撃を開始。この間、少弐政資が、龍造寺次郎を、右衛門太夫に吹挙。
文亀2年(1502)、千葉氏が、龍造寺孫次郎に安堵状を発給している。
永正2年(1505)、千葉氏が、龍造寺隠岐入道に、安堵状を発給。
16世紀、龍造寺氏は、千葉氏との関係で、肥前国内での勢力基盤を獲得したと考えられる。
そして、龍造寺家兼が、登場することになる。
以下、続きます。