さて、前回の続き。

今回は、個人的な推測、想像によります。

 

 

個人的に、やはり、興味があるのは、縄文時代に、広く行われた「屈葬」について。

 

なぜ、遺体の腕、脚を折り曲げて、埋葬をしたのか。

 

ネットで調べて見ると、この「屈葬」が行われたのには、いくつかの理由が考えられるということ。

 

一つは、埋葬の時に、必要な穴を、小さくするため。

一つは、赤ちゃんと同じ体勢にすることで、魂の再生を願う。

一つは、悪霊として再生するのを防ぐため。

 

そして、埋葬をする時に、「石を抱かせる」という様式を、「抱石葬」と呼ばれるそうです。

この、死者に「石を抱かせる」という意味にも、いくつか、説があるよう。

 

一つは、死者が蘇られないように、と、言う意味。

一つは、遺族からの贈り物の代わり、と、言う意味。

 

個人的には、やはり、「屈葬」は、「悪霊として再生をするのを防ぐ」ため。

そして、「抱石葬」は、「死者が蘇らないように」という意味を持たせたのではないかと思うところ。

 

昨日、縄文時代の人の死生観を考えながら、文章を書いていて、ふと、思ったこと。

 

今、現在でも、「亡くなったはずの人を、見た」という、いわゆる「心霊現象」を体験する人は多い。

同じ人間である以上、縄文時代に生きた人たちもまた、「亡くなったはずの人が、目の前に居る」という「心霊現象」を体験する人は、多かったはず。

今の時代なら、「あの人は、ずでに亡くなっている。今、目の前に居るのは、幽霊だ」ということを認識することが出来る訳ですが、もしかすると、縄文時代の人は、「亡くなった人が、蘇った」と考えたかも知れない。

驚いて、その亡くなった人の遺体を埋葬した場所を、掘り返してみるということも、あったのかも知れない。

 

こういう事態が続けば、当然、「亡くなった人が、確実に、蘇らないようにしなければ」と考えるのは、自然な流れでしょう。

そこで、「屈葬」「抱石葬」の習慣が生まれたのではないかと、個人的には、想像するところ。

 

また、一度、埋葬をした遺体を掘り返し、骨を、また、埋葬し直すという「再葬」もまた、「その人が、確実に、亡くなり、蘇らなかった」ということを、確認するために行われたものなのかも知れない。

 

さて、この「亡くなった人が、蘇った」ということで、思い出すのは、「イエス・キリスト」ということになる。

 

イエスは、エルサレム、ゴルゴダの丘で、十字架に架けられて、処刑をされる訳ですが、その三日後に、復活する。

 

現代の常識から考えて、こういうことは、あり得ない訳ですが、もしかすると、本当に、当時の人々の目の前に、イエスは、復活をしたのかも知れない。

今で言えば「心霊現象」に違いないのですが、イエスを慕っていた人の前に、亡くなったはずのイエスが、姿を現わすということは、十分に、あり得る話。

この辺りのことは、興味のある話ですが、なかなか、神秘のベールに包まれている感じで、よく分からない。

 

なぜ、イエスの弟子たちが、必死で、布教活動を始めたのかというきっかには、やはり、何らかの神秘体験があったとしか思えないところで、新約聖書に書かれていることが、真実とは思えないですが、「何か」があったのだろうということは、考えられる。

 

と、少し、話が逸れましたが、霊感が、全く無く、心霊体験が、一度も無い僕には、その感覚は、よく分からないところでもある。

そして、関心のあるところでもあります