さて、この本から、縄文時代の「死生観」について。

 

 

やはり、文献史料が無い以上、発掘調査によって、見つかったものから、推測をするしかない。

しかも、日本列島は、酸性土壌で、人骨が残りにくいそうです。

墓から、親族構成や年齢、性別を検討することもままならないという話。

 

縄文時代の人たちの死生観の特長は、「死」を「穢れ」としてとらえないというところがあるそうです。

日本人は、伝統的に、「死」を「穢れ」として、遠ざけましたが、縄文時代の人たちは、違う。

 

なぜ、それが分かるのかと言えば、縄文時代の人たちは、死者を葬る墓域を、自分たちが生活をする集落の中に作っていたから。

 

縄文時代の集落は、中心に広場があり、その周囲に、住居やゴミ捨て場などがあるのが一般的。

そして、墓域は、住居の近くにあったそう。

墓は、まとまって、継続的に形成され、恐らく、長期に渡る同族墓だろうということ。

同族墓が、長期に渡って形成されるということは、祖霊信仰があったとも考えられる。

乳幼児の墓も、平等に作られたそうです。

 

ちなみに、倉敷市の羽島貝塚から発掘された人骨が、令和6年(2024)年に再調査され、複数の女性の頭蓋骨に、死後、鹿の角で穴を開けたと思われる痕が見つかったそうです。

本に、その写真も掲載されていましたが、一体、どのような意味が込められていたのか。

 

三内丸山遺跡の住居と墓域の図が掲載されていましたが、大人の墓域は、集落の外れに、計画的に形成されていたよう。

同じ方向に、等間隔に、整然と、埋葬されている。

副葬品は、少なく、人骨の残っているものは少ないということ。

 

これに対して、子供の墓は、住居に隣接して作られている。

子供の遺体は、日常に使う土器に入れられ、穴を掘って埋葬されている。

子供の身体に、小さな石を抱かせたり、小石を両手に握らせたりしている場合もあるそうです。

一体、どういう意味があったのか。

そして、子供を入れた土器には、故意に口や底を破損させたり、小さな穴が開けられたりしている場合もあるそうです。

これにもまた、どういう意味があるのか。

 

大阪の国府遺跡では、全てが、屈葬で、石を抱かせたり、頭部を土器で覆ったものがあるそう。

また、岡山市の彦崎貝塚では、屈葬が基本だが、焼けた頭部3体のみを再葬する例もあったということ。

 

さて、以下、個人的な想像。

 

縄文時代の人たちが、「死」を「穢れ」と認識していないというのは、やはり、狩猟で捕った獲物を、重要な食糧としたこと、そして、職業の分化も、それほど、進んでいた訳ではなく、誰もが、「死」に関わらなければならなかったはずで、「死」は、とても、身近なものとして、「穢れ」として遠ざけるという意識が生まれなかったのか、と、思うところです。

 

やはり、個人的に、興味があるのが、縄文時代に、広く行われていた「屈葬」で、一体、どのような意味があったのか。

個人的には、やはり、死者が「蘇る」ということを警戒したのかな、と、思うところ。

身体を丸めて、小さくして葬れば、魂が戻っても、身体が動き出すことはない、と、考えられたのかなと思うところ。

これは、石を抱かせたり、頭に土器を被せるということも、同じ意味があるのかな、と、思うところ。

 

子供の遺体を、住居の側に葬るのは、やはり、「再生」を、強く願ったのか、と、思うところ。

遺体を入れた土器に、小さな穴を開けるのも、魂が、出入りをしやすいようにと考えたのではないかと思うところでもある。

もしかすると、次に妊娠をした子供が、前に亡くなった子供の「生まれ変わり」と考えられたのかも知れない。

小さな石を、抱えさせたり、握らせたりというのは、「あの世での遊び道具」のような意味でも込めたのかな、と、想像をします。

 

一度、埋葬をした遺体を、掘り返して、また、骨を、別の場所に、埋葬し直すということも、行われていたようです。

これもまた、「死者の復活」を、警戒したのか、と、思うところ。

 

個人的に、今回、この本で見て、一番、興味を持ったのが、羽島貝塚の、死後、故意に穴が開けられたと思われる女性の頭蓋骨。

しかも、複数。

故意に、穴が開けられたということは、何か、意味があったはず。

これもまた、死者の復活を警戒したのか、と、思わないでもない。

亡くなった人を、更に、ダメ押しとして、頭部を、強く突き、穴を開けることで、確実に死んだという意味を持たせたのかも。

しかし、全ての頭蓋骨が、そうだったという訳ではないのでしょうから、この推測も、確かとは言えないところ。

 

色々と、不思議なことが多い。

やはり、葬送の儀式は、死生観に通じるものなので、興味深いところです。