杉田玄白「蘭学事始」から。
「ターヘル・アナトミア」の日本語版「解体新書」が完成。
しかし、果たして、この「解体新書」が、世間に受け入れられるのかどうか。
また、元々、オランダの本を出版して、幕府から、何か、処分をされないかどうか。
杉田玄白らは、まず、「解体新書」の予告版として「解体約図」を出版し、反応を見る。
そして、桂川甫周の父、桂川甫三を通じて、「解体新書」を幕府に献上。
更に、杉田玄白は、京都に住む従兄弟を通じて、関白の九条家、近衛家、広橋家に、一部ずつ、送る。
また、幕府の老中たちにも、一部ずつ進呈し、何の問題も起こらなかった。
これが、オランダ語の翻訳本が、世間に公になった、最初のこと。
さて、「ターヘル・アナトミア」の翻訳事業の最中、杉田玄白は、奥州の建部清庵という人物から手紙を貰い、交流を持つ。
清庵自身は、高齢のため、門人の大槻玄沢を、江戸に送り、杉田玄白に入門させた。
杉田玄白は、大槻玄沢を、前野良沢の元で、学ばせることに。
大槻玄沢は、前野良沢からオランダ語を学び、長崎へも遊学し、オランダ語を身に付ける。
江戸に戻った大槻玄沢は、「蘭学階梯」を出版。
この「蘭学階梯」は、オランダ語を学ぶための基本書となる。
また、京都の小石元俊という医師が、「解体新書」を読み、杉田玄白に手紙を送る。
手紙での交流を重ねた後、元俊は、江戸に遊学し、大槻玄沢の元に滞在。
京都に戻ってからは、「解体新書」を門人たちに講義し、これが、関西での蘭学の広がりのきっかけになる。
大坂の橋本宗吉は、傘屋の紋を書く仕事をしていたが、その才能に目をつけた豪商たちの支援を受け、江戸に遊学。
その間に、蘭学を学び、大坂に戻っても蘭学を続け、医師となる。
やがて、オランダの書物の翻訳も始め、西国の多くの人たちに蘭学を広めたということ。
石井恒右衛門は、元々、長崎で通詞をしていたが、江戸に出て、白河藩の家臣となる。
藩主の命令で、ドドニュースの本草書の翻訳を始めるが、事業の半ばで死去。
また、恒右衛門は、因幡藩の医師、稲村三伯に協力し、ハルマという人の書いた辞書を翻訳。
稲村三伯は、因幡国に居る時、「蘭学階梯」を見て、蘭学に関心を持ち、江戸に来て、大槻玄沢に入門。
大槻玄沢から、石井恒右衛門を紹介され、ハルマの辞書の翻訳に乗り出す。
これが「ハルマ和解」と呼ばれる辞書です。
この「ハルマ和解」は、1796年に出版された「蘭仏辞書」を、日本語に訳したもので、石井恒右衛門、稲村三伯の他、大槻玄沢の門下生たちが、関わっているそうです。
ちなみに、ネットで調べてみると、幕末に使われた「ヅーフ・ハルマ」という辞書は、江戸時代後期、1833年に完成したもので、オランダ商館長の「ヘンドリック・ヅーフ」が製作した辞書を、幕府の要請を受けたオランダ通詞の人たちが訳したものだそうです。
この「ヅーフ・ハルマ」は、幕府に献上されましたが、なかなか、出版は、許可されなかったそうです。
幕府の奥医師となっていた、桂川甫周は、強く、幕府に、この「ヅーフ・ハルマ」の出版を許可するように働きかけ、ペリー来航もあって、ようやく1854年に、出版が許可されたということ。
この「ヅーフ・ハルマ」については、いくつか、逸話がありますよね。
一つは、緒方洪庵の適塾には、この「ヅーフ・ハルマ」を一冊だけ、部屋の中においてあり、塾生たちは、その部屋で、「ヅーフ・ハルマ」を奪い合って勉強をしたということ。
また、勝海舟は、日々の生活にも困る貧乏旗本で、この蘭学を勉強するにあたり、この「ヅーフ・ハルマ」を、二冊、筆写し、一つを売って、金を稼いだということ。
杉田玄白、前野良沢、中川淳庵の思いつきから始まった、オランダ語の解読。
そこから、「蘭学」が始まり、日本の社会に、浸透をして行くことになる。
そして、幕末には、この「蘭学」が、非常に、重要な学問となり、この「蘭学」を足がかりに、勝海舟、大村益次郎などが、歴史を動かす立場にまで出世。
やはり、「学問」とは、世の中の役に立たなければならない。
これを「実学」と言いましたが、まさに、「蘭学」は、最初から「実学」だったということです。