杉田玄白「蘭学事始」から。

 

 

さて、杉田玄白は、「ターヘル・アナトミア」と、運命の出会いをします。

 

明和8年(1771)の春、杉田玄白と同じ小浜藩の藩医、中川淳庵が、オランダ通詞の宿舎に出かけたところ、「ターヘル・アナトミア」「カスパリュス・アナトミア」という人体解剖の図解書の二冊を「希望をする人があれば、譲ります」と貸してくれ、持ち帰って、杉田玄白に見せた。

杉田玄白は、ぜひ、欲しいと思い、藩の家老に頼み、購入をして貰うことにする。

 

ちなみに、中川淳庵は、本草学や、オランダの博物学にも、興味を持っていたということ。

そのために、よく、オランダ通詞の宿舎に出入りをしていたそう。

 

そして、3月3日、町奉行の家来、得能万兵衛という人が、手紙で、「おかかえ医師の何某が、千住の骨が原で、腑分けをするというので、希望があれば、行って下さい」と知らせてくれた。

杉田玄白は、自分だけで見るのは、もったいないと、中川淳庵、前野良沢、他、幾人かの仲間も誘うことに。

 

この頃、杉田玄白は、同僚の小杉玄適から、「九蔵」「五臓六腑」といった、昔の人の言っていることは、ずべて、間違いだと聞いていた。この小杉玄適は、京都で、医師の山脇東洋に師事し、腑分けの見学もしていた。杉田玄白は、この山脇東洋の書いた著書も読み、今回、オランダの解剖図が手に入ったことで、これが、正しいことなのかどうか、ぜひ、確かめたいと、喜んだ。

そして、この時、杉田玄白は、前野良沢とは、知り合いではあるものの、特に、親しく交流をしていた訳ではなかったそう。しかし、前野良沢が、医学の高い志を持っていることは知っていたので、この腑分けの見学に誘ったそうです。

 

そして、翌朝、早く、待ち合わせ場所である茶屋に行ったところ、前野良沢は、すでに来ていた。しかも、何と、前野良沢は、長崎遊学の時に、手に入れたと、「ターヘル・アナトミア」を持っていた。杉田玄白は、それを見て、感激する。

前野良沢は、長崎で学んだオランダ語で「ロングは、肺。ハルトは、心臓」などと、「ターヘル・アナトミア」を見ながら、説明をする。

これは、中国から伝わった内臓の図とは、全く、違うもの。

果たして、この「ターヘル・アナトミア」の図は、正しいのかどうか。

 

みんなで、骨が原の、腑分けの場所に到着。

腑分けを担当するのは、穢多の虎松という人物で、この腑分けに巧みだというので、頼んでおいたもの。

しかし、その日は、急な病気になったということで、その祖父という90歳の老人が来る。

非常に元気な老人で、これまで、数人の腑分けの経験があるということ。

 

この「腑分け」というもの。

基本的には、腑分けをする人は、「これは、肺。これは、肝臓」などと示し、見学者は、それを、ただ、見るだけ。

それでも、医者には「腑分けを、実際に、見た」ということで、箔が付いたそう。

しかし、この日は、杉田玄白、前野良沢らが、「ターヘル・アナトミア」を見ながら、あれこれと、老人に質問をする。

老人は「これまで、見学の医師に、内臓を示して来たが、疑問を持って、質問をして来た者は、誰も、居なかった」と、言うこと。

そして、この「ターヘル・アナトミア」には、全く、間違いはなく、これまでの古来の医学で学んだことは、全て、間違いだったということが分かる。

 

腑分けの後、杉田玄白らは、刑場に散らばっている骨を拾って、色々と観察をしてみる。

これもまた、古来の医学の教えとは違い、「ターヘル・アナトミア」の図は、正しいということが分かる。

 

ちなみに、この日、腑分けをされたのは、50歳くらいの女性。

京都の生まれで、あだ名を、青茶婆と言われていたということ。

 

オランダの解剖図が、本当に、正しいということに、杉田玄白は、驚嘆し、ついに「ターヘル・アナトミア」の翻訳の道に進むことに。

 

さて、以下、余談。

 

この「腑分け」をするはずだった人物。

穢多の虎松と書かれています。

 

江戸時代、実は、治安維持活動の末端に、被差別民が、関わっていたそうです。

理由が、なぜなのか。

その点は、よく分からない。

 

もっとも、刑場での仕事に、被差別民が使われたのは、理由が分かる。

それは、やはり、人間の「死」に関わることが、「穢れ」と考えられたからでしょう。

処刑された罪人の遺体の片付けなどに、被差別民が使われたのではないでしょうか。

 

罪人の遺体は、刀の「試し斬り」などにも使われたそうですね。

武家などから、刀の「試し斬り」の依頼などもあったそうです。

恐らく、これらにも、被差別民が関わっていたのではないでしょうかね。

色々と、興味深いですが、なかなか、分からないことも多いです。