さて、更に、杉田玄白「蘭学事始」から。

 

 

オランダ語の「読み書き」を学ぶことが「蘭学」の始めだとすれば、日本で、蘭学は、第八代将軍、徳川吉宗の時代から、始まったということになります。

幕府に、オランダ語の文章を学びたいと申し出て、許可された、西善三郎たちは、「コンストウォールド」という辞書を、オランダ人から借りて、筆写をしたということ。

 

将軍、徳川吉宗もまた、オランダの書物に興味を持ち、「何か、一冊、差し出せ」ということだったので、何かの図入りの本を提出したところ、とても感心して、医師の野呂元丈、儒者の青木文蔵の二人に、オランダ語を学ぶことを命じる。

しかし、毎年、一度、春に、江戸に来るオランダ人に付き添って来る通詞に、わずかな滞在期間の間に、話を聞くだけ。更に、野呂も、青木も、多忙であったので、なかなか、オランダ語の勉強も進まず、数年の間に、いくつかの名詞と、アルファベットの25字を覚えただけということ。

これが、江戸で、日本人が、オランダ語を学んだ、最初のこと。

 

そして、「前野良沢」が登場する。

 

前野良沢は、豊前国中津藩の医師。ちょっと、人とは変わっていて、一種の奇人で、奇妙なものを好む性質があったということ。

そして、青木文蔵から、オランダ語を学ぶことになる。

良沢が、後に記した本によると、実は、それ以前に、オランダ語に接する機会があり、オランダ語に興味を持ち、青木文蔵の門に入ったそう。

この時、前野良沢、40歳余り。

 

明和の初年の頃、オランダ人が江戸に来た時、前野良沢が、オランダ人の宿舎に行くというので、杉田玄白も、「自分も行きたい」と、一緒に行くことに。

そして、宿舎で、オランダ通詞の西善三郎に、「オランダ語を学びたい」と伝えたところ、「それは、とても困難だから、止めた方が良い」と言われ、杉田玄白は、自分は、根気が無いからと、オランダ語を学ぶ気を無くしてしまったということ。

 

この頃、江戸では、オランダから入って来た、いわゆる「舶来品」が、流行をしていたそうです。

オランダ人が江戸に来た時には、その宿舎に、多くの人が集まったということ。

明和の4,5年の頃、通詞の𠮷雄幸左衛門は、バブルというオランダ人医師から、医術を学び、外科に巧みで評判だったということ。杉田玄白は、吉雄が江戸に来た時に、入門し、医術を学んだそう。

玄白は、この時、吉雄から、オランダの医術の本を見せられ、その図を見て感心し、その本を借りて、図を模写したということ。

当然、本に書かれているオランダ語を読むことは出来なかった。

 

前野良沢もまた、中津藩主の母が怪我をしたことをきっかけに、吉雄幸左衛門と親交を持つことになる。

そして、主君が、中津に戻るのに同行した時、長崎に行く許可を貰う。

これが、オランダ語を学ぶために長崎を訪れた、日本で最初の事例。

前野良沢は、約700の語を覚え、字体や文章を学び、少しばかりの蘭書を購入し、江戸に戻る。

 

そして、「解体新書」が、登場することになります。

以下、続く。