杉田玄白の「蘭学事始」。

この本には、日本で「蘭学」が、いかにして始まったのか、と、言うことが書かれています。

 

 

日本で、「蘭学」というものが始まるようになるきっかけは「医術」です。

以下、「蘭学事始」を元に。

 

天正、慶長の頃、いわゆる戦国時代に、「南蛮人」が、日本に来るようになった。

この「南蛮人」とは、「西洋」から来た人たち。ポルトガル、スペイン、イギリスなど。

しかし、キリスト教に脅威を感じた豊臣秀吉、徳川家康は、キリスト教を禁止。

そして、江戸時代初頭、西洋人が日本に来ること、そして、日本人が海外に出ることが禁止されます。

しかし、例外として、日本に来ることが認められていたのが、オランダです。

 

さて、西洋人が日本に来ることは禁止されましたが、天正、慶長の頃に、日本に来た西洋人医師から伝わった医術が、その後も、いくらか、残っていたそうです。これを「南蛮流」と呼んだということ。

 

そして、江戸時代に、日本に来ることが認められていたオランダ人から、医術を学ぶ人も出て来る。

これを「オランダ流外科」と言ったそうです。

 

そして、その頃、「西流」と呼ばれる外科の一派が起こったそう。

これは、西吉兵衛という人が、最初は、南蛮人の通訳、その後、オランダ人の通訳となり、南蛮流、オランダ流の両方の外科を兼ね備えた医術を始めたそうで、これを、世間では「西流」と呼んだそう。

この「西流」は、世間で、とても評判となり、西吉兵衛は、幕府に召し出されることになる。これが、オランダ流が、幕府の御用になった最初のこと。

 

また、南蛮人と日本人の間に生まれた栗崎ドウという人物が、一度は、日本から追放されていたものの、外国で医術を学び、日本に戻ってきたそう。

そして、その医術は「栗崎流」と呼ばれる。

他にも、「吉田流」「楢林流」などが、オランダ通詞の人が、オランダ人から医術を学び、開業をしたものだそう。

他にも、「桂川流」「カスパル流」などのオランダ流の外科があったそうです。

 

さて、上の、様々な西洋医術を学んだ人たちは、オランダ語の読み書きが出来た訳ではありません。

彼らは、オランダ通詞であるので、オランダ語を話し、聞くことは出来ましたが、オランダ語の文章を、読み、書くことは出来なかったそう。

そのため、オランダ人から、直接、見よう見まねで、手術の方法を習い、薬の使い方を、聞いて学んだということのよう。

つまり、本を読んで、オランダの医術を学んだ訳ではない。

 

なぜ、オランダ語の通訳を務める人が、オランダ語の、読み、書きが、出来なかったのか。

それは、当時、オランダ語の読み書きは、通訳をする通詞でさえも、禁止されていたからだそうです。

つまり、オランダ語の通訳をする人でも、オランダ語の読み書きは出来なかった。

しかし、第八代将軍の徳川吉宗の時代、オランダ通詞の西善三郎、吉雄幸左衛門、他一人が、「オランダ語の文章を学び、オランダの書物を読んでも良いという許可を貰いたい」と幕府に申し出て、許可される。

 

ここから、ようやく、オランダ語を、読み、書くという勉強をする「蘭学」が、始まることになります。

以下、続きます。