雑紙「歴史街道」の今月号。
特集は「長篠合戦・450年目の真実」ということ。
以下、この特集記事から、私見も交えながら。
「長篠の戦い」について。
そもそも、なぜ、武田勝頼は、三河国に侵攻したのでしょう。
かつては「天正元年(1573)、徳川家康が、長篠城を奪ったため、それを、奪還するため」と言われていたそうですが、それは、間違いだということ。
実は、そもそも、武田勝頼は、長篠城を奪うために、三河国に侵攻をした訳ではないようです。
当時、徳川家内部では、武田勝頼によるプレッシャーを受け、一部で、混乱を起していたようです。
そのため、武田勝頼は、徳川家の内部の混乱に乗じて、織田信長の援軍が来る前に、徳川家康を倒そうと、三河国に侵攻をしたのだろうということ。
天正3年(1575)4月29日、武田勝頼は、徳川家康が入っていた吉田城を攻めます。
5月1日、武田勝頼は、長篠城を包囲。
5月10日、徳川家康は、織田信長に、援軍を要請。
5月13日、織田信長は、岐阜城を、出陣します。
武田勝頼が攻撃を開始した長篠城ですが、5月20日には、本丸、他、わずかな曲輪以外は、武田軍が占領し、もはや、落城寸前だったそうです。
実は、この点から、「武田勝頼は、敢えて、長篠城を落とさなかったのではないか」とも考えられるそうです。
理由は、この長篠城を囮として、徳川家康を、吉田城から引っ張り出すため。
もちろん、これは、仮説ですが、武田勝頼が、徳川家康との決戦を視野に入れていたのだとすれば、可能性は、十分に、ある。
そして、織田信長の援軍が到着。
5月18日、織田信長、徳川家康の連合軍が、設楽原(有海原)に布陣します。
なぜ、織田、徳川の連合軍は、設楽原に布陣をしたのか。
長篠城と、その西方にある設楽原。
この周辺の地形と、織田、徳川連合軍と武田軍の布陣図を見ると、面白いことが分かります。
長篠城は、東方から流れてくる宇連川、北から流れて来る豊川が、Y字に合流する中央部にあり、長篠城は、東、南、西を川に囲まれ、攻めるには、北から、と言うことになる。
武田勝頼は、この長篠城の北部にある山の上に陣を置き、長篠城を見下ろす形で、プレッシャーをかけていた。
そして、長篠城の後詰めに来た織田、徳川連合軍ですが、この地形図を見ると、直接、長篠城を攻撃する武田軍を攻撃するのは、かなり困難だということが分かります。
織田、徳川連合軍が、武田軍を攻撃するには、豊川を越え、山を駆け登らなければならない。それを、上から迎え撃つ武田軍は、かなり有利な立場になります。
そのため、織田、徳川連合軍は、武田軍を、直接、攻撃することは避け、西に離れた設楽原に陣を敷いたということになる。
この時、織田信長は、何を考えていたのか。
織田信長の心情を記した史料が無いようなので、確かなことは、分からない。
しかし、恐らく、織田信長は、武田勝頼との決戦をするつもりは無く、大軍を持ってプレッシャーを与え、持久戦に持ち込めば、そのうち、武田軍は、引き上げるだろうと思っていたと考えられる。
では、武田勝頼は、何を考えていたのか。
これもまた、武田勝頼の心情を記した史料は、無いようで、分からない。
もしかすると、織田信長自身が、大軍を率いて、援軍に来るというのは、想定外だったのかもしれない。4月、織田信長は、石山本願寺の攻撃をしていて、三河国にまで、手が回らないと考えていたのかも知れない。
しかし、織田信長は、大軍と共に、設楽原に到着した。
ここで、武田勝頼は、今後の戦略をどうするのか、判断を迫られたはず。
どうも、武田勝頼は、この頃の書状の中で、「敵は、為す術が無く、困っている様子だ」と書いているそうです。
つまり、設楽原の西の丘陵に布陣をした織田、徳川連合軍を見て、「攻撃をして来ないのは、自身を恐れ、手が出せないのだろう」と思っていたようです。
そこで、5月20日、武田勝頼は、狭い平地を挟んで、織田、徳川連合軍と対峙する台地に布陣をすることに。
つまり、織田信長、徳川家康の軍勢を侮り、一気に、決着をつけようとしたと考えられる。
問題は、なぜ、武田勝頼が、織田信長、徳川家康を侮り、決戦を挑もうと思ったのか。
つまり、なぜ、武田勝頼は、織田信長、徳川家康に「勝てる」と思ったのか。
通説によれば、5月21日、徳川家康の武将、酒井忠次が、武田軍が長篠城の抑えに築いていた鳶ヶ巣山砦を陥落させ、退路を失った武田軍は、織田、徳川連合軍に、突撃を続けざるを得なかった、と、言われています。
しかし、個人的には、これには、疑問を持っている。
恐らく、武田勝頼は、織田信長、徳川家康を、決戦で、打ち破るつもりだったのではないでしょうか。
個人的な推測では、恐らく、設楽原での戦闘が始まってからも、武田勝頼は、織田信長、徳川家康に「勝つ」つもりだった。
だから、織田、徳川連合軍の布陣に、攻撃を掛け続けたのだろうと思います。
しかし、武田軍は、この戦闘に、敗れる。
なぜ、武田軍は、負けたのか。
武田勝頼には、大きな「誤算」があったものを思われます。
それは、織田、徳川連合軍と、武田軍との間にあった、圧倒的な「物量」の差です。
織田軍が、三千挺と言われる鉄砲を装備していたのは、有名は話。
この「三千挺」というのが、事実なのかどうかという部分には、議論があるようですが、織田、徳川の軍勢を3万5千とすると、当時、武田軍でも軍勢の10パーセントくらいが鉄砲を装備していたそうで、織田、徳川連合軍が、三千挺の鉄砲を装備していたとしても不思議ではない。
不思議ではないとすれば、武田勝頼は、織田、徳川連合軍には、その程度の鉄砲が装備をされているというのは、想定内のこと。
しかし、この「鉄砲」は、「弾と火薬」が無ければ、役に立たない。
恐らく、織田信長が見せつけたのは、この「弾と火薬」の圧倒的な「物量」です。
実は、武田氏や北条氏などの東国の戦国大名は、鉄砲の弾薬を用意するのに苦労をしていたようですね。
つまり、鉄砲は装備をしていても、それを、十分に、合戦で生かすことが出来ない。
しかし、織田信長は、大量の弾薬を、用意することが可能だった。
つまり、戦国大名の「国力」の差です。
当時、日本の東国は「貧しく」、西国は「豊か」だったそう。
戦国時代、日本は、慢性的な飢饉の状態にあったようですね。
しかし、西国では、博多や堺など、貿易で、豊かな経済力を得ることが出来た。
織田信長は、豊かな経済力をバックに、豊富な弾薬を用意し、設楽原では、押し寄せる武田軍に、鉄砲を撃ち続けることが出来た。
これは、恐らく、武田勝頼には、想定外で、「攻め続けていれば、そのうち、弾が切れる」という考えで、武田軍は、攻撃を続けたのでしょう。
しかし、織田、徳川の連合軍の鉄砲は、撃っても、撃っても、弾も火薬も、切れることがない。
そして、武田軍は、大きな被害を出し、破れてしまう。
やはり、戦争には、「国力」「物量」が、最終的に、ものを言う。
記事の中では、織田信長を「アメリカ」、武田勝頼を「日本」と例えていましたが、それだけ、東国、西国では、戦国大名に、国力の差があったということになる。