雑紙「歴史街道」の今月号。

特集は「長篠合戦」ということで、さっそく、購入。

 

 

長篠の戦いについては、また、改めて、と、言うことで、今回は、他の記事から。

日本でも、大人気の「三国志」に関する記事が、一つ。

 

この「三国志」の時代。

英雄、豪傑が、大活躍をし、それぞれ、波瀾万丈の人生が、とても、面白い訳ですが、実は、この時代、大きな役割を果たしたのは、英雄、豪傑よりも「名士」だったという話を、昔、雑紙「歴史群像」の「三国志」で、初めて、読んだ時、「なるほど」と、大きく、納得をしたところ。

この雑紙「歴史群像」は、創刊号から、毎号、欠かさず、買っていたのですが、今は、もう、無くなってしまった。

他には、「歴史読本」「歴史と旅」という雑紙も、よく買っていたのですが、今は、もう、どちらも、無い。

歴史ファンとしては、残念なところ。

 

さて、この「名士」について。

私見も、交えながら。

 

この「名士」という言葉を使って、彼らの活躍を解説したのは、渡邉義浩氏が最初だということ。この名前、「三国志」の関連本では、よく見ますよね。

確か、僕が見た「歴史群像」の「三国志」の中の記事を書いていたのも、渡邉義浩氏だったはず。

 

この「名士」とは、「知識人の間で名声を得て、それを元に、地域社会で支配層を形成する人々」ということになるそうです。

そして、この「名士」たちは、「自分たちの理想が実現できる国家を、自分たちが主体になって形成し、その国家の中で、自分たちが社会的指導者となり、自分たちが理想とする政策を実現して行きたい」と考える者が多かったそうです。

曹操に仕えた「筍彧」「司馬懿」、孫権に仕えた「周瑜」「魯粛」「呂蒙」「陸遜」、劉備に仕えた「諸葛亮」たちが、自分たちの理想を実現するために、時代をリードすることになる。

まさに、「名士」の中でも、トップ中のトップ、と、言うことになるのでしょう。

 

筍彧は、曹操という英雄を利用することで、「漢帝国の復興」を目指していた。

そして、曹操は、袁紹を「官渡の戦い」で破り、華北の覇者となる。

しかし、筍彧は、途中から、曹操と、国家の方針で対立し、自害に追い込まれることになる。

 

周瑜は、孫策、孫権に仕え、曹操の南下を「赤壁の戦い」で、阻止。

荊州から、益州に進出し、曹操と天下を二分しようと構想を練っていましたが、若くして、死去してしまう。

 

そして、諸葛亮は、劉備を利用し、「天下三分の計」を実現させる。

 

さて、今回の記事のタイトルは「諸葛亮を世に送り出した男、徐庶と司馬徽は、何者か」というもの。

 

劉備は、なかなか、自分の支配地を持つことが出来ず、華北地域を、あちら、こちらと、転戦し、有力者の間を、渡り歩いていたのですが、曹操が、華北の覇者となった頃、そこから逃れ、荊州の劉表の元に、身を寄せることになる。

劉備も、すでに中年となり、いわゆる「髀肉の嘆」をかこっていた。

 

実は、劉備が、自分の支配地を持つことが出来なかったのは、土地の「名士」の支持を得ることが出来なかったというのが、大きな理由の一つだそう。

また、基本的に、劉備の率いる集団は、傭兵で、求めがあれば、そこに行って、戦う。

そして、勝てないと分かれば、逃げる。

 

そして、たどり着いたのが、劉表の支配地だった荊州。

劉表の支配により、荊州という地域は、比較的、安定を保ち、多くの人が、戦乱を避け、この荊州に来ていた。

 

ちなみに、この「劉表」という人物。

前漢の第6代皇帝、景帝の後裔に当たるそうで、劉表自身が、「名士」であった。

若い頃は、名士の格としては「八俊」の位になり、「党錮の禁の後は、「八及」の位にあったそう。

この「党錮の禁」とは、「濁流」と呼ばれた宦官が、「清流」と呼ばれた官僚たちを弾圧したもので、「名士」誕生のきっかけになった事件だそうです。

名士たちは、互いに格付けをし合い、高い順に「三君」「八俊(これは、劉表の八俊とは、また別もの)」「八顧」「八及」「八厨」の五つの位があったそう。

劉表は、下から二番目の「八及」ですが、この格付けの中に入っているということ自体が、相当に、意味のあることだったということ。

 

荊州の治所である襄陽に、刺史である劉表は住んでいた。

そして、諸葛亮、徐庶、司馬徽の三人は、襄陽の城外に住んでいたそう。

彼らは、華北の戦乱を逃れ、荊州に来た名士たちということになる。

そして、彼らは、劉表に仕えることなく、距離を置いていたということになる。

ちなみに、司馬徽、徐庶は、豫州穎川郡の出身で、諸葛亮は、徐州瑯邪郡の出身。

 

華北から逃げてきた名士たちは、そのまま、華北の覇者となった曹操に仕えるという選択もあった訳ですが、なぜ、そうすることなく、荊州に、逃げてきたのか。

一つは、曹操が、宦官の孫であるということ。

名士の中には、宦官を嫌う者が多く、それを意識したのではないかということ。

一つは、曹操が、徐州で、大虐殺を行ったこと。

曹操のこの大虐殺を、批判する名士も、多かったようです。

 

なぜ、徐庶、司馬徽、諸葛亮は、劉表に仕えることなく、距離を置いていたのでしょう。

恐らく、彼らは、劉表を、自分が主君とするのに値する人物ではないと判断をしていたのだろうということ。

劉表に仕えていた訳でもなく、自ら、生計を立てるような仕事をしていた訳ではない徐庶や司馬徽は、一体、どのようにして、生活をしていたのか。

 

彼らは、土地の有力者の支援を受けて、生活をしていたと考えられる。

では、土地の有力者とは、誰か。

それは「龐徳公」ではないかということ。

この龐徳公自身も名士であり襄陽の豪族でもあったそう。

また、「崔州平」という人物も、彼らを支援していた可能性があるよう。

 

もちろん、劉表に仕える名士たちも居た訳で、彼らは、劉表から、生活の糧を得ている。

しかし、劉表に仕えている訳ではない名士たちは、自ら、生活の糧を得るために働くというよりも、その名声により、生活の支援をしてくれる富豪が居たということになる。(もちろん、龐徳公や魯粛のように、富豪自身が、名士の場合もある訳ですが)

名士になるためには、他の名士から評価をされることが必要だったようで、高名な名士から、高い評価を得ることで、その人の名士としての価値が、上昇するということになるのでしょう。

ちなみに、諸葛亮が「伏龍」、龐統が「鳳雛」と評価されたことは、その名士としての価値を示し、世間での評価を高めたことでしょう。

 

そして、この名士たちにも、派閥、グループのようなものがあったようで、劉表から距離を置き、襄陽の城外に住んでいたグループは、劉備に目をつけ、自分たちの理想を実現するためのリーダーとすることにする。

そして、劉備の元に、諸葛亮を送り込む訳ですが、その時の「三顧の礼」は、「相手を、相当の地位で、召し抱えます」というパフォーマンスで、最高の礼を持って、劉備は、諸葛亮を迎えたということになる。

そして、土地の名士グループの支持を得た劉備は、ようやく、荊州の一角に、自身の支配地を持つことになる。

 

更に、益州の名士たちもまた、この劉備に目をつけ、劉備を、自身の主とするため、荊州の劉備に働きかけ、迎え入れる訳で、劉備は、曹操の魏、孫権の呉に対抗することが出来る地位となる訳ですが、益州に入った劉備の元で、益州の名士と、荊州の名士との間で、対立が起こる訳ですが、それは、また、別の話。