さて、また、この本から、中世の「道」についての話。
中世、「道」というものは、どのように管理をされていたのか。
つまり、支配者である武士は、「道」を、どのように管理しようとしていたのか。
それもまた、武士の出した「法」から、理解することが出来ます。
武士は、この「道」に関する「法」を、たくさん、出しているそうです。
それだけ、「道」の管理には、気を遣っていたということ。
まずは、「道幅」の確保に、苦心をしているようです。
都市の中にある道には、その両側に町家が立ち並んでいる訳で、この町家が、道の方にせり出して来るのを阻止するための「法」が、制定されている。
家を、道の方にはみ出させることはもちろん、家の「ひさし」が、道の方にはみ出すことも禁止をしているそうです。
また、道の両端には、溝、川がある場合もあったようで、この溝、川の上に家を作る者や、川や溝を、勝手に埋めて、その上に家を作る者も居たようで、これらも、当然、禁止されている。
放っておけば、「道」は、次第に、どんどん、狭くなって行くものだったということ。
だから、支配者は、それを、厳しく、禁止していた。
京の都などでは、「道」を、勝手に耕して畑にしたり、勝手に「道」に家を建てたりして、それが、そのまま、私有地となり、売買されることも行われていたそうです。
これを「巷所」と呼んだそうで、他の地域でも、同じようなことは起こっていた。
支配者の武家としては、こういうことも、厳しく、禁止しなければならなかったよう。
そして、当然、「道」は、維持、管理をしなければならないもの。
この「道」の維持、管理を、誰がしていたのかと言えば、意外にも、例えば、幕府や、大名が、道の管理をしていた訳ではないようです。
この、公共の「道」の維持、管理をしていたのは、その「道」の付近に住んでいる住民たちが、自分たちの費用を持ちだして、維持、管理をしていたようです。
もちろん、一般の民衆が、自ら、進んで、そんなことをする訳ではないので、幕府や大名が、一般民衆に命じて、維持、管理をさせていたということになる。
支配者の責任で、「道」の維持、管理をする訳ではなく、付近の住民に、維持、管理をさせるというのは、それが、中世の常識だったのでしょう。
道が、壊れた時の補修や、道の清掃作業に、周辺に住む一般の民衆が使われていた。
今では、公共のものは、自治体が維持、管理をするのが普通ですが、かつては、その地域に住む人たちが、維持、管理をするのが常識だったということなのでしょうね。
さて、この「道」の清掃について。
幕府や大名といった支配者は、この「道」の、徹底した清掃を、「法」で決めていたそうです。
これは、個人的には、少し、意外なところでした。
この「道」を、綺麗な状態に保つということで、このような「法」も出されています。
それは、「病人や、孤児、死体を、道に捨ててはならない」というもの。
このような「法」が出されているということは、昔は、道に、病人や、孤児や、死体を捨てる人が多かったということ。
何だか、悲惨ですよね。
ちなみに、病人や孤児といった者たちは、「無常堂」や「延寿堂」とよばれる施設に、収容されたそうです。
もっとも、病人や孤児の全てが、そのような場所に収容された訳ではなく、ごく一部の人たちだけだったのだろうと想像します。
また、糞尿を、道に捨てる場合も多かったようで、これも、当然、禁止されている。
なぜ、幕府や大名は、「道」を、綺麗に保つことを重要視していたのか。
いくつか、理由があるようです。
一つは、「伝染病の広がりを防ぐ」というもの。
病人や、死体、糞尿が、道に放置されていれば、当然、そこから、病気が発生し、広がることになる。
これは、支配者としては、どうしても、防がなければならないこと。
一つは、「その土地の支配者の権威を見せる」というもの。
やはり、町の「道」などが、とても綺麗に保たれていたら、誰もが、それを見て、その土地が、ちゃんと、支配者の権威によって、整然と支配されているということが、一目瞭然で、分かる。
この効果を、支配者は、意識していたのでしょう。
一つは、「道は、聖的な場所である」という意識があったのではないかということ。
古代から、「道」には、様々な霊的なものが宿るという意識が、日本の社会にはあったよう。
そのために、「道」を、清浄に保つ、その必要があったのではないかという話。
ちなみに、「道」を始め、「お寺」「神社」の境内なども、「清浄な空間」とされ、徹底して、清浄を保つことが求められた。
この清浄を保つために仕事をしていたのが、いわゆる「被差別民」と呼ばれる人たち。
個人的に、この「被差別民」には、特に、関心を持っていて、色々と、機会があれば、調べているところ。
彼らは、「河原者」「坂者」「犬神人」「清目」「非人」などと呼ばれていた。
昔、読んだ本では、被差別民の人たちが、この「清浄を保つ」仕事に従事していたのは、元々、彼らには、「穢れを清める」という、特殊な力を持つという認識があったのではないかと書かれたものがありました。
しかし、この「穢れを清める」という能力の方は、忘れられ、「穢れ」に関わるという点だけを持って、差別される存在になってしまったのではないかという話。
しかし、この本では、元々、彼らは「穢れ」を持つ存在として認識されていて、元々、穢れを持つ人たちなら、穢れに関わる仕事をしていても、それ以上、穢れを持つ訳ではないので、大丈夫だ、と、言う意識で、使われたのではないかと書かれていました。
個人的には、後者の方が、説得力がある気がする。
しかし、だとすれば、なぜ「被差別民」が、日本の社会の中に生まれたのかという話は、謎として残ってしまう。
まだまだ、謎は、尽きないです。
ちなみに、京の都に比べて、鎌倉では、この「清浄」に関わる仕事に、被差別民が関わることは、少なかったという話のよう。
これは、武士が、そもそも、「死」、「穢れ」に関わることを仕事にしているので、それほど、「穢れ」を忌避していなかったのではないかと言うことのようです。