お酒もまた、賭博と同じく、人類の歴史とは、切っても、切り離せないものですよね。

そして、様々な国で、度々、「禁酒令」が出されているようですが、日本もまた、例外ではない。

この本から。

 

 

建長4年(1252)、鎌倉幕府は、「鎌倉での酒の販売を禁止しろ」という命令を出しているそうです。

そして、鎌倉の中にある民家の「酒壺」の数が、調査をされたそう。

また、この時、幕府が出した「禁酒令」は、鎌倉だけではなく、全国の市場も、対象にしていたそう。

そして、この命令を出した翌月、更に、「鎌倉の中の酒壺は、全て、破壊をするように。ただし、一家に、一壺は、残していても良いが、酒、以外のものを、入れるよう」という命令が出されている。そして、「酒造りをする者は、処罰をする」とも。

 

なぜ、このような命令を、鎌倉幕府は、出したのでしょうね。

 

ちなみに、面白いことは、「酒を造ること」は、禁止をされていても、「酒を飲むこと」は禁止をされていないそうで、幕府の行事でも、宴会は、変わらず、行われていたということ。

では、その酒は、どこから調達をしていたのか。

 

また、この「宴会」についての規制をする「法」も出されている。

弘長元年(1261)に出された「法」の中に、「ぜいたくな食器を、酒宴の時に、使ってはならない」というものがあるそうです。

また、「派手な宴会は禁止し、客のもてなしは、簡素に」という趣旨の「法」も出されているそうで、これらは、「酒宴」そのものを禁止するのではなく、「ぜいたく」を禁止するもの。

質素、倹約を求めるのは、江戸幕府だけではなく、鎌倉幕府も、同じだったようですね。

 

また、弘安7年(1284)にも、全国を対象に「酒の販売」を禁止した「法」が出されているそう。

 

どうも、「酒の販売の禁止」は、「ぜいたく」の禁止や、「風紀の乱れ」の阻止、また、酒の上での「騒動」の未然の防止、などを目的にして出されているような感じです。

しかし、恐らく、これは、誰も、守っていないし、誰も、本気で取り締まっていない、と、言うことになるのではないでしょうかね。

そもそも、取り締まる側の人や、「法」を出した側に居る人たちが、酒を飲み、宴会をしているのでしょうから。

 

更に、面白い「法」が、一つ。

 

文暦2年(1235)に、「念仏を唱える僧の中に、魚や鳥を食べ、女性を招き寄せ、仲間を集め、頻繁に酒宴をする者が居るという。その僧の家は、保の奉行人に命じて、破壊し、本人は、鎌倉中から追放する」という「法」が出されているそう。

 

この時代、すでに、「僧」の風紀も、相当に乱れていた。

この「鎌倉」という都市は、幕府の本拠地であり、「武家の町」であるイメージですが、実は、寺社が、とても多い町でもあったそうですね。

それだけ、「僧」もまた、鎌倉の中に、大勢、居たということになる。

そして、その「僧」たちの風紀の乱れが、目に余るということだったので、幕府は、この「法」を出したのでしょう。

 

個人的に、気になるのは、「念仏を唱える僧」という部分。

 

平安時代末期、法然の登場で、「念仏」を唱えることを第一にした「専修念仏」の教えが広まり、多くの信者を得ることになる訳ですが、その中には、いわゆる「本願ぼこり」と言い、「念仏を唱えれば、何をしても良い」と考える人たちも、居たんですよね。

わざわざ、「念仏を唱える僧」と「法」の中に書かれているということは、このような僧たちを対象にしたのかも。

 

もっとも、「念仏を唱える僧」は、「専修念仏」だけではなく、念仏を広めて回る「融通念仏」の僧や、高野山を中心とする「高野聖」なども居た訳で、一遍の「時衆」の集団は、もっと、後の時代ということになる。

 

鎌倉という都市には、雑多な人が集まり、幕府は、治安の維持、都市の景観、機能の維持に、非常に、苦心をしていたようです。

それが、当時の「法」を見ると、よく分かります。

 

ちなみに、僕は、お酒を、全く、飲まないので、もし、今、「禁酒例」が国から出されても、何も、困らない。

しかし、国民は、大反発でしょうね。