マルセル・プルーストの小説「失われた時を求めて」。
とても有名な小説ですよね。
僕が、この小説を知ったのは、もう35年くらいも前のことでしょうか。
確か、香川県高松市にある本屋、宮脇本店で、本を眺めて歩いていると、ちくま文庫の並んだ棚に、この「失われた時を求めて」が並んでいた。
このタイトルを見て、とても、興味を持ったのですが、相当に、長い小説のようだったので、その時には、手が出なかった。
その後、フランツ・カフカに興味を持ち、小説「変身」を皮切りに、様々なカフカの小説を読んだのですが、これが、とても、面白い。
そして、このカフカは、「20世紀の三大作家」の一人ということを知り、後の二人は、マルセル・プルーストとジェイムズ・ジョイス。
ここでもまた、「失われた時を求めて」が、登場する訳ですが、やはり、どうも、長すぎて、手が出ない。
取りあえず、ジョイスの小説を、何か読んでみようと「ダブリン市民」という文庫本を買って、読んでみたのですが、これが、なかんか、読みづらく、難解で、途中で挫折をしてしまった。
更に、数年前に、ジョイスの代表作「ユリシーズ」を読んでみようかと思って、色々と、ネットで調べてみたのですが、この「ユリシーズ」は、様々な文学作品のパロディとなっていて、それらを知らなければ、理解をすることが出来ないという話。
最低でも、「オデッセイア」は、読んでおく必要があるという話で、とても、そこまでは手が回らないと、断念。
そして、最近、立て続けに、様々な場所で「失われた時を求めて」に関する本や、話を、偶然、目にする機会があり、また、昔の記憶が蘇って来た。
一体、どのような小説なのかと、昔は無かった、ネットで調べてみると、書かれているのは、やはり、「長い」「難解」の二つ。
物語自体が、相当に「長い」というのは、この「失われた時を求めて」の最大の特徴で、このために、挫折をする人が多いよう。
そして、文章自体もまた、「一文、一文が、とても長くて、難解である」と書かれていて、これもまた、読者が、挫折をする理由だそう。
また、膨大な登場人物に、様々な伏線があり、これらを理解するのは、普通に読んでいると、相当に困難だという話。
調べれば、調べるほど、「読みこなすのは、困難」という結論になるのですが、逆に、どのような小説なのか、一層、興味が湧いて来てしまった。
このような、長大で、難解だという小説。
今、読まなければ、もう、人生で、読む機会は無いだろうと、挫折を覚悟で、読んで見ることに。
どの本が、一番、良いのか。
ネットで調べて見ると、岩波文庫の「失われた時を求めて」の評価が高いようなので、さっそく、第1巻を購入。
毎日、数ページずつ、無理をせずに、読んでいるところ。
この文庫本。
実に、良いですね。
この「失われて時を求めて」を読むにあたって、必要な情報が、全て、本の中で、補足されている。
これならば、何の知識も無くても、「失われた時を求めて」を、読み、理解するのに、不自由は無いでしょう。
まだまだ、読み始め。
しかも、僕は、本を読むのが遅いので、まだ、冒頭も、冒頭の部分しか読んでいないのですが、「長い」「難解」と評判の文章ですが、これは、意外なほど、読みやすく、面白い。
僕の印象では、恐らく、文学作品、特に、外国の文学作品の中では、むしろ、「読みやすい」と言っても良い文章です。
宮沢賢治はもちろん、夏目漱石の文章などよりも、余程、読みやすいでしょう。
そして、「長い」という評判だった文章ですが、これもまた、それほど、長い訳ではない。
文学作品であるならば、この程度は、普通ではないでしょうか。
もちろん、「読みやすい」「面白い」からといて、僕が、ちゃんと、内容を理解しているのかどうかは、別の問題。
その点は、まだ、分からないところ。
この「失われた時を求めて」は、あまりにも長いために、抄訳本も、出版されているようですね。
しかし、物語の内容を、取りあえず、知識として知っておきたいという人には良いでしょうが、やはり、「文学」を味わいたいという人は、本文を、全て、読んだ方が良いのは当然の話。
さて、これまで読んだ中で、気になる一節がありました。
それは「スワン」という登場人物についての話の中で、出て来た一説。
この「スワン」が、どういう人物なのか。
主人公、そして、語り手である「私」ですが、その「私」の家に、スワンが、来る。
そして、「私」の家と「スワン」の家は、親しい交流があり、当然、「私」の家族は、スワンのことも、よく知っている。
が、本当に、スワンのことを、知っているのかどうか。
本当に、スワンのことを、知っていると言えるのか。
ここで、登場するのが「社会的人格」という話。
その人の「社会的人格」というもの。
言い換えれば、その人が、「社会の中で、どいう人格と認識をされているのか」ということ。
実は、この「社会的人格」は、「他人の思考の産物である」と、「私」、つまり、作者のプルーストは、本文の中で、書いています。
これは、なかなか、面白い。
目の前に「人」がいる。
そして、他人は、その「人」の「肉体的外観」を見ている。
しかし、その「肉体的外観」の中に、その「人」を見る人は、その人が持つ「その『人』に関する知識を、全て、詰め込んでいる」ということ。
つまり、その「人」の「社会的人格」とは、その「人」を見る人の「知的行為」だということ。
ここからは、少し「失われた時を求めて」を、離れます。
自分の中には、4種類の「人」が居るという話を、聞いたことがあるのでしょうかね。
一つは、「自分が知り、他人も知る」自分。
一つは、「自分が知らない、他人が知る」自分。
一つは、「自分が知る、他人が知らない」自分。
一つは、「自分が知らない、他人も知らない」自分。
つまり、自分の中には、「自分が知らない、他人が知る自分」や「自分が知らない、他人も知らない自分」という人も居る。
「自分は、こういう人間だ」
という認識は、誰もが持っているのでしょうが、必ずしも、それが、「他人の認識している自分」とは、限らないということになる。
「失われた時を求めて」に出て来た一説は、ここで言う「他人の知る自分」ということになるのでしょう。
そして、それが、「社会的人格」ということになる。
もっとも、僕が、これまで書いたことが、正しい解釈かどうかは、分からない。
なにしろ「難解」で有名な小説ですから。