今、「武士の掟・中世の都市と道」という本を読んでいますが、とても、面白い。
少しずつ、紹介をして行こうと思います。
この本。
中世の武士が、都市を、どのように支配しようとしていたのか。
当時、武士が出した法律から、その様子を、見てみようというもの。
さて、中世の「法」については、以前、「徳政令」を紹介した時に、書きましたが、少し、おさらい。
日本の中世、公権力(鎌倉幕府や朝廷)が出した「法」というもの。
この「法」は、制定されても、広く、一般の庶民に、知らせるということは、ありませんでした。
つまり、多くの人が、その「法」が、制定されたということを、知らなかったということ。
そして、その「法」が制定されたからといって、必ずしも、厳格に守られた訳ではない。
そのため、「○○を禁止する」という「法」があるからといって、その「○○」が、無かったのかと言えば、そうではなく、むしろ「○○を禁止する」という「法」があれば、逆に、「○○」が、社会に、横行していたということになる。
そして、公権力が制定した「法」よりも、その地域が、独自に定めた「掟」や、慣習の方が、強い力を持っていたようで、その中には、なかなか、公権力も、入って行くことは難しかったよう。
この本に、個人的に、以前から関心を持っている「辻捕り」の話が、出て来ました。
まず、この「辻」とは、何か。それは、元々は、「道の交差点」や、「道の分岐点」のこと。
そして、後に、この「辻」は、「路上」の全般を指す言葉にもなる。
実は、この、「道の交差点」である「辻」は、古代から、「あの世と、この世の接点」と考えられていたそうで、この「辻」には、神や、霊が集まると考えられていたそうです。
記憶が確かではないですが、昔、読んだ何かの本に、この「辻」に、怨みのある人の何かを撒き、人に踏ませるという呪術があるという話を見たことがあるような気がします。
この呪術もまた、「辻」の霊性を、考慮したものでしょう。
そして、この「辻」は、一種の「広場」で、ここでは、芸能や、商売が行われたようで、鎌倉幕府は、鎌倉の中の「辻」で、芸能や商売を禁止する「法」を、出しているそうです。
幕府は、この「辻」に、人が集まることを嫌ったよう。
さて、本題の「辻捕り」です。
以前、ある本を読んでいた時に、「昔、日本では、路上を歩いている女性を、勝手に、連れ去っても良い」という慣習があったということが書いてあり、とても、不思議に思いました。
なぜ、そのようなことが許されるのか。
昔、また、ある本で、「武士が、京都で活動を始めた頃、東国から来た武士が、京の女性を、勝手に、連れ去って、問題になった」という話が書かれているのを見て、この話は、「東国の武士の野蛮さ」を表しているものと、勝手に、思っていたのですが、実は、そうではなく、当時は、「一人で道を歩いている女性は、勝手に、連れ去っても良い」という慣習が、日本には、あったということです。
これを「辻捕り」と言います。
なぜ、この「辻捕り」という慣習が、存在したのか。
著者は、「辻」の霊性と関係があるのではないかと推測しているようでしたが、どうも、よく分からない。
日本以外の国でも、路上を歩いている女性を、勝手に、連れ去り、自分の妻とする「略奪婚」という慣習がある地域が、かつて、中央アジアなどにあったようですが、こういう歴史を見ると、イスラム教が、女性を、家の中に閉じ込め、自由を認めないというのは、元々は、こういう「辻取り」や「略奪婚」の風習から、女性を守るために作られたものではないかと思うところ。
もっとも、それ以外でも、女性が、外を歩くということは、治安の悪い地域では、非常に危険な訳で、それを考慮したのかも知れませんが。
話が逸れましたが、あの「御成敗式目」の中にも、この「辻捕り」を禁止する「法」が、存在しているそうです。
恐らく、当時、この「辻捕り」が、横行し、幕府は、取り締まる必要があった。
そして、恐らく、「辻捕り」は、無くなった訳ではない。
そして、個人的な推測ですが、この「辻捕り」は、「人身売買」と、強く結びついているはず。
つまり、女を連れ去り、売り飛ばすということ。
学校の歴史の授業で習うことはありませんが、かつて、日本の社会では、「人身売買」が、広く、行われていた。
そして、それは、恐らく、一部地域では、昭和の中頃まで、公然と、存在していたのではないでしょうかね。
今、大河ドラマ「べらぼう」に登場する吉原の遊女たちも、みんな、売られてきた女性。
「辻捕り」にしろ「人身売買」にしろ、公権力は、度々、禁止をする「法」を出しているようですが、無くならなかった。
それだけ、根強い、慣習だったということ。
鎌倉幕府もまた、全国的に、人身売買を禁止する「法」を出している。
しかし、それは、鎌倉幕府のある鎌倉でさえ、無くならなかったよう。
嘉禄2年(1226)、延応元年(1239)、建長年間(1249~56)、弘長元年(1261)と、度々、鎌倉幕府は、人身売買を、厳しく禁止する「法」を出している。
しかし、それは、無くならない。
人身売買をする商人は「人商人」と呼ばれたようです。
そして、この「人商人」は、鎌倉の中にも、多数、存在をしていたよう。
この「辻捕り」という慣習は、いつ頃まで、日本の社会に存在していたのでしょうかね。
個人的には、江戸時代の頃までは、存在していたのかな、と、想像するところですが。