昭和19年(1944)7月、サイパンが陥落。
10月、アメリカ軍が、フィリピンに侵攻。
ジワジワと、そして、確実に、アメリカ軍が、日本に近づいて来る。
連合艦隊が、主力艦隊を結集して、フィリピンのアメリカ軍を叩こうと侵攻しますが、作戦は、甚大な被害を出して、失敗に終わる。
そして、昭和20年。
この本から、個人的な考えも、交えながら。
1月20日、「帝国陸海軍作戦計画大綱」が、天皇の裁可を得る。
しかし、その内容は「進行して来るアメリカ軍に損害を与え、彼らの士気を喪失させつつ、重要地点を確保する」という、これといって、意味の無い、漠然としたものだったということ。
なぜ、こんな内容になってしまったのか。
それは、政府、陸軍、海軍に、「これから、いかに戦争を進め、終結させるのか」についての、一致した方針が無かったから、と、言うことになるそうです。
この頃、すでに、天皇と政府の方針に影響を与える「重臣」と呼ばれる人々(総理大臣経験者、枢密院議長、内大臣)の中では、アメリカ軍と講和をするべき、と、言う意見が、多数を占めていたそうです。
強硬に、徹底抗戦を主張していたのは、東條英機くらい。
しかし、天皇は、この講和論を、素直に受け入れるつもりは無かったようです。
この頃、アメリカ軍が、台湾に侵攻して来るという見立てがあったそうですね。
この、台湾に侵攻して来たアメリカ軍に、一撃を与え、出来るだけ、有利な条件で講和をしたいと天皇は考えていたよう。
これを「一撃講和論」と呼ぶそうです。
陸軍は、何を考えていたのか。
陸軍は、「本土決戦」を、アメリカ軍との主戦場と考えていたそうです。
つまり、アメリカ軍が、「本土」に侵攻して来た時こそ、真の決戦だということ。
それまでは、出来るだけ、アメリカ軍の戦力を削減するための、持久戦を行うに過ぎない。
硫黄島も、沖縄も、陸軍にとっては、「本土決戦」に至るまでの、過程の一つ。
海軍は、何を考えていたのか。
フィリピンでの「レイテ沖海戦」で、大打撃を受けた連合艦隊は、もはや、アメリカ軍と、まともに戦える戦力を持っていない。
更に、残されていた艦艇も、燃料不足で、まともに動かせない有様。
決戦をするならば、出来るだけ、早い方が良い。
そうでなければ、じり貧で、何も出来なくなってしまう。
天皇、政府、陸軍、海軍の意思の統一が出来ないまま、漠然とした戦略が立てられる。
その中で、アメリカ軍が、台湾ではなく、沖縄を目指していることが、次第に、明らかになって来る。
3月、「天一号作戦」が、発令される。
航空攻撃によって、アメリカ軍の艦艇に、打撃を与え、本土への侵攻を遅らせようと考える陸軍と、すでに、戦力の消耗の激しかった海軍とが、緊密に協力し、全力を挙げて、南西諸島を、アメリカ軍から守るというもの。
4月1日、アメリカ軍が、沖縄に上陸。
4月3日、航空戦力の全てを賭けて、アメリカ軍に攻撃をかける「菊水作戦」が決定。
そして、この「菊水作戦」に呼応する形で、第二艦隊、戦艦大和の特攻が、決定します。
この「菊水作戦」については、後ほど。
さて、それにしても、ここでも、相変わらずの「戦略」の無さが、目につきます。
戦争の開始、当初から、日本軍には、確かな「戦略」というものがなく、場当たり的。
もっとも、「戦略」というものが、何も無かったという訳ではなく、当初の「戦略」の通りには、上手く、戦争の経緯が、進まなかったということになるのでしょう。
そして、その流動的な戦争の流れに、対処をすることが出来なかった。
つまり、新たな「戦略」を立てることが出来なかった。
そして、まさに「場当たり的」に、戦争が、進んで行くことになる。
沖縄戦では、悲劇とも言える「特攻作戦」が、本格化します。
それは、まさに、「場当たり的」の結果、と、言うことになるのでしょう。