大村益次郎と大鳥圭介の二人について。

この二人の経歴は、よく似ています。

 

大鳥圭介。

天保4年(1833)、播磨国細念村の村医者の子として生まれる。

嘉永5年(1852)、大坂の適塾に入門。

安政元年(1854)、江戸に出る。

安政6年(1859)、蕃書調所に出仕。

文久元年(1860)、御鉄砲方附蘭書翻訳方出役。

文久3年(1863)、海陸軍兵書取調方出役。開成所の教授を兼務。

 

大村益次郎。

文政8年(1825)、周防国鋳銭司村の村医者の子として生まれる。

弘化3年(1846)、大坂の適塾に入門。

嘉永3年(1850)、帰郷し、村医者となる。

安政3年(1856)、江戸に出る。

同年、蕃書調所に出仕。

安政4年(1857)、講武所の教授となる。

文久3年(1863)、帰郷。

 

どちらも、村医者の子として生まれ、大坂の適塾に入門。

その後、大鳥圭介は、江戸に出た後、尼崎藩士となり、徳島藩にも召し抱えられることになる。

そして、幕府に出仕し、幕府陸軍の編成に関わり、伝習隊の指揮官になり、戊辰戦争を戦います。

 

大村益次郎は、適塾で学んだ後、帰郷し、村医者になりますが、その後、宇和島藩に召し抱えられ、江戸に出る。

そして、幕府に出仕をした後、長州藩に召し抱えられ、長州藩の軍事の中心となり、戊辰戦争では、新政府軍の総司令官とも言える立場となる。

 

大村益次郎、大鳥圭介は、共に、村医者の子として生まれ、適塾に入門。

その後、軍事の専門家となり、戊辰戦争を戦うことになる。

 

大村益次郎が、大鳥圭介を、どう見ていたのか。

大鳥圭介が、大村益次郎を、どう見ていたのか。

以前から気になっていたのですが、大鳥圭介は、明治に入ると、軍事とは距離を置き、軍事に関する発言は、何もしていないようなので、大鳥圭介の関連本を、いくつか読んだのですが、大村益次郎に関する話は、出て来ない。

そして、今回、読んだ「大村益次郎先生事蹟」の中に、いくつか、その話が、記されていました。

 

 

大鳥圭介は、「大村益次郎が、講武所に出勤するようになってから、翻訳の様子が、すっかり変わって来た。つまり、大きく進歩した」と話していたそうです。

 

また、大村益次郎は、「大鳥圭介は、なかなか、よく出来る男だ」と褒めていたということ。

 

つまり、蘭学者としては、双方、非常に、高く、評価をしていたということでしょう。

 

そして、軍事について。

 

箱館で、榎本武揚らが降伏をした時、大村益次郎は、「榎本武揚を助けるならば、大鳥圭介も助けなければならない。官軍に抵抗して、一番、強いが、後日のために尽くすなら、大鳥圭介が、一番、賊の中で、役に立つ。戦は、あの人が、一番、よろしい」と話していたということ。

 

また、大鳥圭介が、日光から、会津に移動、その後、北関東で、官軍と戦っていた頃、大村益次郎は「大鳥圭介を、越後まで逃がしてはならない。越後に行って、守らせると、困る。大鳥圭介は、臆病な奴だから、攻めて出て来るという器量は無いが、守る方については、力がある」と言ったということ。

 

現在では、大鳥圭介という人物は、軍事、用兵に関して、全く、無能だったように評価をされています。

 

しかし、大村益次郎の評価では、そうではなく、相当に、大鳥圭介を軍事指揮官として、高く、評価をしている。

 

個人的な印象でも、やはり、戊辰戦争当時、大鳥圭介の、軍事指揮官としての周囲の評価は、かなり高かったものと思います。

そして、現在の、大鳥圭介に関する評価は、不当に、低すぎる。

なぜ、そのようなことになってしまったのか。

それに関しては、以前、考察をしているので、そちらを。