「大村益次郎先生事蹟」という本があります。

 

 

 

著者は、村田峯次郎で、安政4年(1857)の生まれ。

長州藩の藩政改革で活躍をした、あの村田清風の孫になります。

村田峯次郎は、生涯、防長の歴史の研究を続けたということ。

 

刊行は、大正8年(1919)で、大村益次郎の没後、50年となる。

靖国神社に置いて、大村益次郎没50年祭が行われた時に、配布されたものだそう。

そして、上の本は、平成13年(2001)に、限定500部で、復刻されたもの。

 

実は、村田峯次郎は、明治25年に、「大村益次郎伝」を刊行している。

これは、大村益次郎の伝記として、最も、早いもの。

 

この「大村益次郎先生事蹟」は、前半が、大村益次郎の伝記で、後半は、「大村先生逸事談話」となっています。

この「大村先生逸事談話」とは、実際に、大村益次郎の側近くで、接していた、親しい人たちから、大村益次郎の生前の話を聞いたもの。

生の大村益次郎の言動が、記録されていて、とても興味深いもの。

 

ちなみに、司馬遼太郎の「花神」が、ブームになって以降、この小説で書かれたフィクションを、史実のように紹介をした大村益次郎関連のものも多いよう。

その点、それ以前に書かれた、この「大村益次郎先生事蹟」は、大村益次郎に関する根本的な史料となっている。

 

さて、この「大村益次郎先生事蹟」の中から、気になることを、いくつか。

先に読んだ、この本と比較して。

 

 

大村益次郎が、大坂、緒方洪庵の適塾で学んでいた時、ぜひ、長崎で勉強をしたいと、長崎に行き、そこで、肥前の奥山静叔の元で、学んだという話が出て来ます。

そして、その奥山静叔の元で学んでいた時、シーボルトが、長崎に居たので、シーボルトの元でも学んだとも書かれていました。

果たして、大村益次郎は、シーボルトの元で、学んだのか。

そういう話は、「大村益次郎」の中には、記されていなかった気がする。

 

また、この適塾に居た頃、宇和島藩から、招聘の声がかかったが、地元に戻り、医者になるために断ったという話。

果たして、これは、事実なのか。

「大村益次郎」では、宇和島藩から招聘された訳ではなく、自ら、宇和島藩に向かったのではないかと書かれていました。

 

大村益次郎が、刺客に襲われた時、浴室に隠れて、難を逃れたという話は、この本に出て来ます。

「大村益次郎」では、遭難直後に、現場を訪れた人物が、直接、大村益次郎から「押し入れの中に居た」という話を聞いていることが掲載されていました。

 

また、大村益次郎が、東京ではなく、大坂に、新政府の軍事拠点を作ろうとしたのは、そこが日本の中央であり、大坂城を、拠点として活用出来る。更に、後に、起こるであろう、西国での士族の反乱を予期していたから、とも。

「大村益次郎」では、東京で、新政府の軍隊を、どうするのかという構想で、大久保利通と対立。

そして、大久保利通との論争に敗れ、一度は、辞任を決意した大村益次郎ですが、辞任は許可されず、自身の構想を実現するために、大久保利通の居る東京ではなく、ならば、大坂で、という流れだったと記憶しています。

 

そして、「大村益次郎は、馬に乗ることが出来なかった」という話がありますが、これは、明らかに、間違いのようです。「大村先生逸事談話」の中に、大村益次郎と、馬に関する話が、いくつか、出て来ます。

 

寺島秋介が、東北で戦っていた時に、良い馬を見つけて、東京に持って帰ったそうです。

すると、大村益次郎が、その馬を見て、「君の馬は、細くて良いな。俺に、譲ってくれ」と言ったそう。

寺島は、「この馬は、非常に、心がけて持って来た馬だから、やれません」と言うと、「それなら、良い。この老人が、馬から落ちて、死んでも良いと言う了見なら、それで良い」と大村益次郎は行ったそう。

仕方ないので、「乗って下さい」と、その馬を、大村益次郎に取られてしまったということ。

 

また、曾我祐準の話では、大村益次郎が、休日、することが無かったので、向島まで馬で行って、日が暮れたという話も。

 

こうして見ると、「大村益次郎が、馬に乗れなかった」という話が、どこから出て来たのか、不思議です。

 

この「大村益次郎先生事蹟」「大村先生逸事談話」の中では、すでに、その言動が、まるで、未来を知っているかのように、的確で、周囲を驚かせる大村益次郎の逸話が、たくさん、掲載されています。

その様子は、やはり「三国志演義」に登場する諸葛亮孔明の姿と、瓜二つ。

戦略、戦術といった軍事の天才というだけでなく、あらゆる面で、大村益次郎には、先に起こる出来事を、的確に予測できる能力があったようです。

本当に、このような人物が、実在をしたのかと言ったところ。

 

さて、大村益次郎が、勝海舟が、このような話をしていたという話も出て来ました。

 

幕府が、洋式陸軍、歩兵を編成することに、勝海舟は、否定的な意見を持っていたようですね。

何でも、大量の歩兵を編成、維持するには、多くのお金がかかる。

また、この歩兵たちは、質が悪く、統制が取れないので、役に立たないだろうと、勝海舟は、思っていたようです。

 

また、大村益次郎は、「政府のお金を、まるで、自分のお金を遣うかのように、大切にしていた」ということ。

 

これには、誰もが、感心をしたそうで、今の政治家にも、見習ってもらいたいところです。

 

また、大村益次郎は、写真を残さなかったそうですね。

そのため、靖国神社に立てられた大村益次郎の銅像は、容姿が似ているという親族を元に、製作されたという話。

 

幕末、維新で活躍をした有名人で、写真を残さなかった人物と言えば、西郷隆盛が有名ですが、大村益次郎もまた、そうだったようです。

なぜ、この二人は、写真を撮影しなかったのか。

 

ちなみに、日本人が、「靴」というものを履くようになったきっかけも、大村益次郎が、兵士に、靴を履かせたのが最初だったという話も。

しかし、大村益次郎自身は、ずっと、和装で通していたようですね。

やはり、基本的には、欧米列強に、あまり良い感情を持っていなかったということなのでしょうかね。