宮沢賢治の短編「気のいい火山弾」。
タイトルにある「火山弾」とは、火山が噴火をした時に、飛散した溶岩が、冷えて固まったものです。
当然、様々な形がある訳ですが、その中の一つ、角の無い、丸い火山弾の「ベゴ石」が、主人公。
ベゴ石は、他の火山弾とは違って、丸いため、周囲にある角のある火山弾はもちろん、「柏の木」や「おみなえし」、「蚊」や「苔」や「蛇」など、みんな、ベゴ石を、蔑み、馬鹿にします。
しかし、ベゴ石は、周囲の悪口や、蔑みを、何とも、思わない。
それどころか、平然と、彼らに話を合わせ、ますます、馬鹿にされる始末。
しかし、ある時、東京帝国大学の研究者が来て、ベゴ石に目を留め、「実に、整った、立派な火山弾だ」と、ベゴ石を絶賛し、研究のための標本として、持ち帰ることにする。
つまり、周囲のみんなから馬鹿にされ、蔑まれていたベゴ石が、実は、最も、素晴しい火山弾だったということ。
この「最も、駄目なように見えるもの、一番、愚かに見えるようなものが、実は、一番素晴しい」という話は、「注文の多い料理店」の中に収録されていた「どんぐりと山猫」の中にも出て来ましたね。
いかにも、宗教的、仏教的な、お話です。
さて、以下、余談。
この「最も、愚かに見えるものが、実は、一番、素晴しい」という思想。
この思想を、最も、よく体現しているのが、「良寛」に違いない。
今、良寛と言えば、「素晴しい人物」であり、「尊敬」の対象である訳ですが、良寛の生きていた当時、恐らく、良寛のことを「ただの、愚かな人物」と見る人も、多かったのではないかと想像します。
十字街頭に、食を乞い了り
八幡宮辺、方に徘徊す
児童相見て、共に相語る
去年の痴僧、今また来ると
良寛の漢詩の一つ。
町の中を托鉢をして回り、八幡宮の辺りを歩いていたところ、子共たちが、自分を見て、言った。
「去年、来た、変な坊さんが、また来てる」
と。
恐らく、良寛は、当初は、町の人、村の人たちにとって「変な坊さん」だったのに違いない。
そして、良寛の思想、その人となりを知らない人にとって、良寛は、「愚かな、変な坊さん」に過ぎない存在として、認識されていたのではないでしょうか。
そして、良寛の、最も、有名な漢詩の一つ。
そして、僕の、最も、好きな漢詩の一つ。
生涯、身を立つるに懶く
騰々、天真に任す
嚢中、三升の米、炉辺、一束の薪
誰か問わん、迷悟の後
何ぞ知らん、名利の塵
夜雨、草庵の裡
双脚、等間に伸ばす
生涯、身を立てるようなことはしなかった。
何事も、天運に任せて来ただけ。
袋の中に、三升の米と、囲炉裏の傍らに、一束の薪。
誰かが、悟りについて聞く。
しかし、名利の塵など、どこにあるのか知らない。
夜の雨の中で、草案に座り、脚を伸ばしているだけである。
やはり、宗教者は、立身出世を目指しては、駄目ですよね。
そして、宗教を、金儲けの手段に使うなど、もっての他。
やはり、宗教者は、常に、民衆の中にあり、弱い者の支えとなり、貧しくないと。
そうでない宗教、宗教者は、単なる、まやかしです。