2027年の大河ドラマに、松坂桃李さんを主演に、「小栗忠順」を主人公にすることが決まったという話。
まさか、小栗忠順が、大河ドラマの主人公になるとは、思いませんでした。
幕末ファン、特に、幕府、佐幕に共感する僕のような歴史ファンにとっては、まさに、待望の主人公と言える。
僕が、小栗忠順について、読んだのは、この本くらい。
どちらも、複数の人物を紹介したもので、小栗忠順は、その中の一人。
もちろん、小栗忠順をテーマにした本は、たくさん、存在する。
大河ドラマの主人公に決定したことで、これから、次々と、新たな本が出版されることになるでしょうから、また、買って、読まないと。
以下、これまで、いくつかの本で読んだ「小栗忠順」についての記憶と、個人的な想像を元に。
この小栗忠順が、幕臣として、台頭をするのは、大老、井伊直弼による「安政の大獄」の後から。
安政7年(1860)、日米修好通商条約を批准するために、アメリカに派遣された使節の「監察」という役職に選ばれた頃から。
この「監察」は、「正使」である新見正興、「副使」である村垣範正に次ぐ、使節のナンバー3の立場。
ちなみに、この「監察」という言葉は、当初、英語で「スパイ」と訳され、「日本の使節の中に、『スパイ』が居るのか」と、アメリカで問題になったよう。
小栗忠順は、この使節で、世界一周をして、日本に戻って来る。つまり、小栗忠順は、日本人の中で、いち早く、世界を、自分の目で見てきたということ。
井伊直政による「安政の大獄」で、それまで、幕府の中枢を担っていた開明派の官僚たちの多くが、失脚した後、この小栗忠順が、幕府の屋骨を支えることになります。
外国奉行として、幕府の外交を担い、勘定奉行として、幕府の財政を担うことになる。
つまり、小栗忠順は、幕末の歴史の後半、徳川幕府という組織を支える中心に居たということ。
徳川幕府は、かなり、早い段階から、財政難に苦しんでいました。
この財政難を解消しようと、徳川吉宗による「享保の改革」、松平定信による「寛政の改革」、水野忠邦による「天保の改革」が行われる訳ですが、どれも、上手く、行かなかった。
つまり、徳川幕府は、慢性的な財政不足で、幕末期には、それが、かなり深刻だったということ。
しかし、幕末という困難な時代に、小栗忠順は、この幕府の財政を担うことになる。
そして、小栗忠順は、必要なことを行うために「お金が無い」という言い訳は、絶対に、しなかったそうです。
この小栗忠順の仕事として、後世に、大きな遺産となったのが「横須賀製鉄所」の建設です。
この「横須賀製鉄所」は、「製鉄所」という名前ですが、実際は、「造船所」です。
この「横須賀製鉄所」が、後の「横須賀海軍工廠」となり、あの強大な、帝国海軍の建設の礎となる。
莫大な予算の必要な横須賀製鉄所の建設には、反対意見もあったそうですが、小栗忠順は、この横須賀製鉄所の建設は、後の日本に、絶対に必要なものだという確信があったようで、この横須賀製鉄所があれば、幕府が倒れても「土倉付きの空き家だ」と胸を張れると言ったそう。
つまり、「土倉」とは、横須賀製鉄所のこと、「空き家」とは、徳川幕府の担ってきた政権のことでしょう。
そして、この「土倉」、つまり、横須賀製鉄所は、幕府が倒れた後、新政府の元でも、絶対に、役に立つ。
その強い思いが、小栗忠順にはあったということ。
外交交渉としては、文久元年(1861)に、ロシア軍艦が、対馬の一部を占領した事件に、外国奉行として対処したことが有名です。
現地の対馬に派遣された小栗忠順は、対馬の一部を占領したロシア軍艦の責任者と交渉しますが、「ここは、対馬藩の領地なので、対馬藩主と交渉する」という相手に対して、業を煮やし、江戸に戻ると、「対馬を、幕府の直轄領にしろ」と、上層部に訴えますが、却下されます。
恐らく、ここから、小栗忠順は、幕府の政治、軍事の近代化に、のめり込んで行くことになる。
欧米列強と対等に渡り合うには、徳川幕府を、日本を、どうすれば良いのか。
小栗忠順の有名な言葉に、「藩を廃して、郡県となし、大樹を持って、大統領となさん」というものがあります。
つまり、幕藩制度を廃止して、郡県制度で日本を統一し、大樹(将軍)を、大統領として、中央集権国家を創るということ。
小栗忠順にとって、その第一歩となるはずだったのが、第一次長州征伐です。
まず、この長州征伐で、長州藩を潰し、その後、順次、藩を、無くして行く。
しかし、小栗忠順から、その構想を聞いた、同じ幕臣の勝海舟は、それを阻止するために、行動することになる。
勝海舟は、中央集権国家ではなく、「公議政体」、つまり、公による議論によって、政治を行うことを目標にしていた。
つまり、小栗忠順の国家構想とは、相容れないもの。
長州征伐に失敗をした幕府は、小栗忠順の主導で、フランスに接近をして行くことになる。
これは、薩摩藩、長州藩を支援する、イギリスに対抗するため。
小栗忠順は、幕府陸軍の近代化を、フランスに託すことになります。
また、財政的な支援を、フランスに求めることに。
この、小栗忠順の、フランスへの接近は、歴史として、批判をされることが多い。
しかし、薩摩藩、長州藩に対して、劣勢に陥った徳川幕府の支援は、フランスの方から、打ち切ることになる。
鳥羽伏見の戦いに敗北をした幕府軍。
徳川慶喜は、江戸に、逃げ帰ることになります。
しかし、小栗忠順は、江戸城で、徳川慶喜に、徹底抗戦を主張します。
拒否をする徳川慶喜に、すがりついて懇願をしますが、徳川慶喜が、小栗忠順の役職を罷免。
江戸城を去り、自身の領地である上野国で隠棲することを決めますが、そこにやってきた新政府軍によって捕縛され、処刑。
何の罪もなく、何の抵抗も見せない小栗忠順を、問答無用で処刑をしたのは、新政府が、小栗忠順を、徳川幕府の中心人物だったと認識をしていたということでしょう。
ちなみに、徳川慶喜に、徹底抗戦を主張した時に、小栗忠順は、新政府軍を打ち破る作戦を立てていました。
それは、優勢な幕府海軍を、有効活用しようというもの。
箱根の坂を越えて、江戸に入った新政府軍に対して、艦砲射撃で、箱根を砲撃し、西から来る新政府軍の補給を遮断。
江戸に入った新政府軍を、優勢な幕府陸軍によって壊滅させ、更に、幕府海軍を使って、薩摩、長州の本国に、幕府軍を送り込み、新政府軍の中心である薩摩、長州を、直接、攻撃し、占領しようというもの。
ちなみに、この小栗忠順の作戦を知った新政府軍の総司令官、大村益次郎は、「この作戦が実行されていれば、今頃、自分たちの首は無かった」と言ったそう。
さて、この小栗忠順が、大河ドラマで、どう描かれるのか。
薩長中心史観が、少しでも、変われば、良いですけどね。