鳴果なるさんの漫画「風呂屋のフーコ」の第一巻を読了。
ハートフルで、なかなか、良い漫画でした。
主人公は「風呂宮風子」という、11歳の女の子。
家は、銭湯を経営している。
時代は、昭和の後半。
舞台は、大阪の、ある町。
やはり、この時代は、良いですね。
僕の、子供の頃の思い出と重なるものがある。
本の帯の推薦文を書いているのは、漫画「じゃりン子チエ」の、はるき悦巳さん。
「じゃりン子チエ」と「風呂屋のフーコ」は、舞台が、大阪、そして、主人公が、共に、小学生の女の子、更に、どちらも、小学生ながら、仕事をしているという点で、共通している。
昔は、経済的に苦しい家庭の子供は、小学生、中学生でも、朝、新聞配達をしてから、学校に行っていたという話を、よく聞いた気がします。
役者の草刈正雄さんも、以前、テレビで、そのような話をしていました。
また、家が仕事をしている場合、子供が、家業を手伝うということは、当たり前に、していたことなのではないかと想像します。
しかし、今では、子供を働かせるということは、法律ででも、禁止されているのではないでしょうかね。
そういう話は、めっきり、聞かなくなった気がする。
格差が広がり、「賃上げ」、「賃上げ」と騒いでいる一方で、日々の食べることにも困り、「フードバンク」や「子供食堂」に頼らなければならない家庭も多いよう。
しかし、そういった、経済的に苦しい家庭でも、今では、子供が、新聞配達などの労働をしているというケースは、無いのではないのでしょうか、と、想像します。
子供に、労働をさせるということは、基本的には、良いことではないのでしょう。
しかし、子供でも、働いて、お金を貰うという経験をすることは、決して、悪いことではないように思います。
もちろん、子供を、学校に通わせず、強制的に労働をさせるとか、低賃金で、厳しい仕事をさせるということなど、あってはならないこと。
しかし、世界では、今でも、そういう環境で、働かされている子供は、大勢、居るよう。
先日も、ラジオのニュースを聞いていると、チョコレートの原料になるカカオ豆の栽培のために、子供が、低賃金で、強制的に労働をさせられているという話をしていました。
その子供たちは、自分が栽培しているカカオ豆が、チョコレートになるということを知らないし、もちろん、チョコレートなど、食べたことがないという話。
厳しい話ですが、恐らく、子供たちだけを救い出しても、問題の解決にはならない。
そこには、恐らく、根本的な「貧困」というものがある訳で、一部の人間だけが、富を囲い込むことには、どうしても、違和感があるところ。
さて、「銭湯」というもの。
昔は、どこの町にも、当たり前のように、あったものでしょう。
風呂の無い家が多かった時代。
銭湯というものは、地域の中で、絶対的に、必要なものだったはず。
しかし、家には、必ず、風呂が付くよになり、アパートにもまた、部屋に風呂が付くのが、当たり前になると、銭湯は、必ずしも、地域に必要なものではなくなって行く。
僕が子供の頃、地域に、二軒の銭湯がありました。
一つは、家の、近所で、もう一つは、小学校に行く通学路の途中。
家の近所にあった銭湯には、保育園に通っていた頃に、家の風呂を新しいものに直す間、しばらく、父親と一緒に、入りに行った記憶が、ぼんやりと残っている。
この家の近所にあった銭湯は、僕が、小学校に入って間もなく、無くなった。
通学路にあった銭湯は、僕が、高校生の頃くらいに、無くなったはず。
さて、主人子の「フーコ」は、銭湯で、番台に、座って、仕事をしている。
この「番台」に座っていると「男湯」「女湯」の、両方を見ることが出来る訳ですが、昔は、これが、当たり前だったのでしょうかね。
風呂屋の番台というと、このイメージ。
しかし、今では、これは、無理なのではないでしょうかね。
男が、番台に座って、女湯を見る。
女が、番台に座って、男湯を見る。
どちらも、今では、大きな問題になるのではないでしょうか。
さて、「銭湯」と言えば、もう一つ、思い出すのが、ヤマザキマリさんの漫画「テルマエ・ロマエ」ですよね。
映画にもなり、大人気になりましたが、僕も当時、漫画を買って、読みました。
ローマ時代の「公衆浴場」の湯船と、日本の「銭湯」の湯船が、異次元で繋がり、公衆浴場を設計することを仕事にしている「ルシウス」は、ローマ時代と、現代日本の風呂を、行ったり、来たり。
実に、面白い、斬新な発想の漫画でしたね。
さて、この「風呂屋のフーコ」は、今月、発売される第二巻で完結のよう。
また、買って、読もうと思います。