今月号の雑紙「歴史街道」に、「砂糖」に関する記事がありました。
砂糖の歴史など、これまで、考えたことが無かったので、色々と、面白い。
さて、「砂糖」というもの。
基本的には、「サトウキビ」から採れるものですよね。
この、サトウキビの原産地は、「ニューギニア」だそうです。
サトウキビの栽培は、この、ニューギニアから、東南アジア、インド、ヨーロッパ、そして、南北アメリカ大陸へと広がって行くことになる。
この、サトウキビが栽培されるのは、熱帯、亜熱帯の地域だそうです。
しかし、ヨーロッパには、この、サトウキビを栽培するのに適した土地が、あまり、ありません。
大航海時代、ヨーロッパの人たちは、世界各地に進出して行きますが、その中で、17世紀、ポルトガルが、ブラジルで、大規模なプランテーションによって、サトウキビの栽培を始めます。
ここから、砂糖の大量生産が始まり、それまで、ヨーロッパでは、非常に、高価なものだった砂糖の値段が下がり、一般庶民にも、手の届くものになって行きます。
そして、砂糖は、ヨーロッパの人たちのカロリーベースとなり、ヨーロッパの人たちの生活水準の向上させることになります。
この「プランテーション」で、働いていたのは、アフリカから輸送された「黒人奴隷」の人たちでした。
そして、砂糖の栽培には、ユダヤ人が、大きく関わっているそうです。
1492年、ヨーロッパのイベリア半島では、スペインが、イスラム国家であるグラナダ王国を滅亡させ、スペインは、完全に、カトリックの国家となります。
そこでは、カトリック以外の宗教の迫害が行われ、ユダヤ人もまた、迫害に遭いました。
この時、イベリア半島を追放されたユダヤ人は「セフォルディム」と呼ばれたそうです。
セフォルディムの一部は、オランダのアムステルダムに向かうことになります。
さて、南米のブラジルですが、一時、ポルトガルから、オランダが、領土を奪っていたそうです。
その時に、このセフォルディムの人たちの一部が、ブラジルに渡ることになる。
そして、ポルトガルは、再び、ブラジルをオランダから取り戻す訳ですが、このポルトガルからも、セフォルディムの人たちが、ブラジルに渡ることに。
そして、ポルトガルからブラジルに渡ったセフォルディムの人たちが、オランダから渡って来ていたセフォルディムの人たちに、サトウキビの栽培、砂糖の製造の方法を伝えたと考えられるそう。
そして、オランダからブラジルに来ていたセフォルディムの人たちは、更に、カリブ海地域に移住。
サトウキビの栽培、砂糖の製造の技術が、南北アメリカ大陸に広がり、セフォルディムの人たちは、そこで、黒人奴隷を使って、プランテーションによる、大規模な砂糖の製造を開始します。
さて、この大航海時代に、ヨーロッパの人たちにとって、重要な輸入品は、まず「香辛料」でした。
この、香辛料は、東南アジア、インドから輸入されることになる訳ですが、実は、この、香辛料の輸入は、エジプトのアレクサンドリアまでは、アジア、イスラムの商人の仕事で、アレクサンドリから、イタリアの商人が、ヨーロッパに輸入をしていたそうです。
つまり、ヨーロッパの商人の関わりは、少ない。
そして、ポルトガル商人が、アフリカ南端、喜望峰を回って、直接、インド、東南アジアで取り引きするルートを開発してから、歴史が変わる訳ですが、それは、また、別の話。
そして、砂糖は、南北アメリカ大陸から、ヨーロッパの商人が、直接、ヨーロッパに運び込むことになる。
これによって、ヨーロッパは、独自の経済圏を作り上げたということ。
砂糖の主要生産地であったブラジルは、ポルトガルの支配下にありましたが、とても、ポルトガル一国では、この砂糖の生産、流通のための資金はまかなえず、ヨーロッパ全体の商人たちを巻き込んだ、一大事業になったそう。
しかし、18世紀になると、西インド諸島から砂糖を輸入するイギリス、そして、ハイチから砂糖を輸入するフランスが、砂糖の貿易で台頭をして来る。
ちなみに、イギリスでは、輸入された砂糖のほとんどを国内で消費し、フランスでは、輸入された砂糖の多くが、更に、ヨーロッパの諸国に輸出されたそう。
イギリスでは、東アジアから輸入をした「茶」に、西インド諸島から輸入した「砂糖」を入れて飲む、「紅茶」が生まれることに。
砂糖の生産、流通は、ヨーロッパの人たちの生活水準を向上させ、市場経済の活発化をもたらしたそう。
そして、それは、産業革命へと発展することになります。