室町時代に起こった戦乱の中でも、最も、有名なのが「応仁の乱」ではないでしょうか。
しかし、この「応仁の乱」は、相当に、複雑で、経緯も、分かりづらい。
それを、ごく簡単に、この本から。
また、以前、読んだ、この本からの記憶も交えながら。
この「応仁の乱」は、東軍、16万、西軍、11万の軍勢が、京都に集結し、11年にも渡って、続いたと言われる戦乱です。
軍勢の数は、誇張があるとしても、11年もの、長期に渡って、京都を中心に、戦闘が続いたのは事実。
京都の人が、「先の戦争では……」と話す時、この「先の戦争」は、第二次世界大戦、太平洋戦争ではなく、この「応仁の乱」を指すという話もありますが、果たして、事実なのかどうか。
しかし、日本の都である京都に、甚大な被害を与えた戦乱は、この「応仁の乱」が、史上、最悪と言うことになるのではないでしょうかね。
11年にも渡って続くことになる「応仁の乱」の、直接のきっかけになるのは、管領を務める畠山家の内紛です。
この内紛の発端は、管領を務めていた畠山持国が、養子としていた弟の持富を廃し、実子の義就を、跡継ぎに指名したこと。
享徳3年(1454)、義就が、後を継ぐことに反対する家臣たちが、持富の子、弥三郎を擁立。その後、弥三郎は、亡くなりますが、弥三郎の弟、政長は、跡を引き継ぎ、対立は続きます。
当初、この畠山家の家督争いでは、将軍、足利義政は、義就を支持していました。
しかし、細川勝元の要請により、義政は、弥三郎を支持することに。
しかし、すぐに、義就の支持に戻るなど、将軍、足利義政の判断が、迷走します。
最終的に、畠山義就が、大和国で、軍事行動を起したことが、義政の怒りを買い、義就は、幕府の討伐の対象となります。
そのため、畠山政長が、畠山家の家督を継ぎ、寛正5年(1464)、管領に就任。
しかし、畠山政長、畠山義就の対立は、その後も、続く。
更に、同じく、管領を務める斯波家でも、内紛が起こります。
きっかけは、斯波義敏が、幕府の命令に背き、義政によって更迭されたこと。
寛正2年(1461)、渋川氏から養子に入った義廉が、斯波家を継ぎます。
しかし、斯波義敏は、幕府から恩赦を受け、家督への復帰を目指すため、山名宗全を頼り、その娘を、妻に迎えます。
細川勝元、山名宗全は、この頃、天下の実力者で、「応仁の乱」に、大きな影響を与えることになる。
その頃、まだ、実子の無かった、将軍、足利義政は、寛正5年(1464)、弟の義視を、養子に迎えます。
足利義視は、義政の後継者として、次の将軍になるために、迎えられた。
しかし、その翌年、実子の義尚が、生まれます。
義政は、足利義視を、義尚が成長するまでの、「中継ぎの将軍」、または、義尚が、無事に成人しない場合の「スペア」のように考えていたようです。
しかし、義政の側近、伊勢貞親は、義尚を将軍とするため、文正元年(1466)、斯波義廉に代えて、義敏を、家督に復帰させます。
また、当時、幕府の追討の対象となっていた大内政弘を、赦免。
自分の派閥に取り込もうとします。
これに、斯波義廉の岳父だった山名宗全が反発。軍勢を京都に呼び寄せます。
また、大内政弘と、日明貿易の利権を巡って対立をしていた細川勝元も、これを支持。
伊勢貞親は、京都を出奔します。「文正の政変」です。
この頃、まだ、細川勝元、山名宗全の二人は、決定的に、対立をしていた訳ではない。
この「文正の政変」で、側近、伊勢貞親を失ったことで、将軍、足利義政は、力を失い、細川勝元、山名宗全は、足利義視を担ぎ、暫定政権を設立します。
しかし、細川勝元は、間もなく、足利義政を、政権に復帰させ、足利義視を支持する山名宗全と対立。
山名宗全は、大和国、河内国で、勢力の拡大を続けていた畠山義就と手を組み、同年12月、畠山義就は、山名宗全、斯波義廉に迎えられ、軍勢と共に、上洛。
管領、畠山政長は、義就の上洛に対して、屋敷に櫓を建て、防戦の準備を始めます。
将軍、足利義政は、当初、畠山政長を支持していましたが、間もなく、畠山政長を罷免し、斯波義廉を管領に就けます。これは、軍事的に優勢な、山名宗全に、押し切られたものを思われる。
これに対して、細川勝元は、赤松政則、京極持清らと共に、軍勢を率いて、室町殿(将軍御所)に押し寄せる計画を立てますが、それを事前に察知した山名方が、文正2年、応仁元年(1467)1月、室町殿を、占拠。
畠山政長は、これに対して、上御霊社に陣を敷き、細川勝元らも、室町殿を包囲する形で陣を敷きます。
そして、1月18日、畠山義就が、上御霊社の畠山政長を攻撃。
山名宗全、斯波義廉の軍勢も、これに加わり、ここに「応仁の乱」が、勃発します。
この「上御霊社の戦い」は、畠山義就が勝利し、山名方が、幕府を掌握します。
足利義政の指示で、「上御霊の戦い」に参加できなかった細川勝元は、幕府への出仕を停止し、畠山政長らと反撃のための協議を行う。
5月26日、細川方の細川成之、武田信賢が、室町殿の向かいにある山名方の一色義直の屋敷を急襲。将軍と天皇、法皇の身柄を確保します。
この闘いをきっかけに、京都市街で、細川方、山名方の戦闘が、本格化。
山名方は、室町殿、細川邸を堀川で隔てた西側、一条大宮一帯に陣を構えたので「西軍」と呼ばれ、室町殿、細川邸の一帯に陣を敷いた細川方は「東軍」と呼ばれるようになります。
6月8日、東軍は、将軍、足利義政から与えられた旗を持って、幕府の正規軍であることを示し、足利義視を総大将に担ぐ。西軍に対して、優位に立ちます。
この頃、東軍は、西軍に対して、圧倒的に優勢で、西軍は、東軍に、降伏を申し入れていたようです。
しかし、東軍は、西軍に、厳しい降伏要件を突きつけ、交渉はまとまらない。
この交渉が難航する間に、西軍の諸将の軍勢が、続々と、京都に入り、西軍は、体勢を立て直し、戦闘を続行することにします。
更に、8月、大内政弘が、大軍と共に上洛。西軍と合流し、西軍は、東軍に対して、形勢を逆転。
9月、「東岩倉の闘い」で、東山一帯が、戦場になる。
10月、最大の市街戦である「相国寺の戦い」が起こる。
応仁2年(1468)11月、足利義視が、幕府を脱出し、西軍に寝返る。
これは、伊勢貞親が、幕府に復帰し、義視と対立をしたため。
この足利義視の、西軍への寝返りに、足利義政は激怒し、これまで、中立の立場を取っていた義政は、東軍の立場を鮮明にする。
東軍、西軍の対立は、膠着状態に。
文明3年(1471)、西軍は、将軍、天皇を手元に確保している東軍に対抗し、南朝の後胤を迎え入れます。いわゆる「西陣南帝」です。
6月、東軍は、斯波氏の重臣で、越前国の朝倉孝景に、越前国の守護職を与えると言い、東軍に寝返らせます。朝倉孝景は、一年ほどの間に、越前国を平定。戦況は、東軍の有利に傾きます。
更に、美濃国では、斉藤妙椿の活躍により、東国からの京都への補給が、困難になります。
文明4年(1472)1月、細川勝元、山名宗全は、和睦交渉に乗り出しますが、諸将の反対により、頓挫。翌年、細川勝元、山名宗全は、相次いで、亡くなります。
文明6年(1474)、山名宗全の子、政豊と、細川勝元の子、政元の間で、講和が成立。しかし、諸将は、この講和に従わず、京都では、両軍の対峙が続きます。
文明8年(1476)、西軍の主力だった大内政弘が、守護職の安堵を条件に、東軍に降伏。
文明9年(1477)、同じく、西軍の中心だった畠山義就が、河内国に下り、他の諸将も、次々と、京都を離れ、11月、大内政弘が、京都を去ったことで、「応仁の乱」は、終息します。
河内国に下った畠山義就は、独自の軍事活動によって勢力を拡大。
最初の戦国大名とも言われるようですね。
また、西軍に迎えられた「西陣南帝」は、山名宗全の死後、放逐されたよう。
その後、どうなったのか、興味のあるところですが、史料は、残っていないのでしょう。