雑紙「歴史街道」の今月号。
特集は「室町幕府と応仁の乱」です。
室町時代は、最初から最後まで、戦乱に継ぐ、戦乱で、安定をしていた時代が無い印象。
なぜ、このようなことになってしまったのか。
今月号の特集の中から、個人的に、気になることを、いくつか。
室町時代に、なぜ、戦乱が、絶え間なく、続いたのか。
以前、読んだ本によれば、やはり、「将軍の権力が弱かったから」と、言うのが、第一の原因なのでしょう。
なぜ、将軍の権力が弱かったのかと言えば、「守護の力が、想定外に、強くなってしまったから」と、言うことになる。
最初の想定では、室町幕府の「守護」は、かつての「国司」のようなもので、国を支配する訳でもなく、世襲でもなかったのですが、南北朝の争乱や、観応の擾乱を経て、この「守護」は、国を市内する「守護大名」となり、更に、それが、世襲となったことで、守護大名は、大きな力を持つことになってしまった。
これが、将軍の力が、弱くなってしまった原因です。
しかし、今回の特集を読むと、どうも、第6代将軍、足利義教が、鎌倉公方の足利持氏を討った、永享10年(1438)の「永享の乱」以降、幕府には、倒さなければならない大きな敵というものは、居なくなったということになるようです。
しかし、この「永享の乱」以降も、戦乱は、続いて行く。
それは、なぜか。
どうも、室町幕府の将軍というもの。
敵を相手に、戦い続けなければならないような体制になっていたようですね。
将軍は、敵を相手に戦い、戦功を挙げた守護大名に、恩賞を与える。
それが、室町幕府の将軍の役割だったという話のよう。
そのため、将軍は、守護大名に、些細な言いがかりをつけて、討伐の対象にする。
また、将軍が、有力守護大名の後継争いに介入し、わざわざ、もめ事を作り出しているような印象もあるということ。
これでは、戦乱は、終わらない。
ちなみに、個人的に、「永享の乱」で、なぜ、鎌倉公方、足利持氏が、討伐の対象となったのか、ずっと、疑問だったんですよね。
なぜなら、応永23年(1416)に、関東管領、上杉禅秀が、鎌倉公方、足利持氏に対して起した「上杉禅秀の乱」では、幕府は、足利持氏を支援し、上杉禅秀の反乱を鎮圧している。
なぜ、かつて、危機を助けてもらった幕府に対して、その後、足利持氏は、反乱を起したのか。
それが、疑問だった。
どうも、足利持氏は、「上杉禅秀の乱」の後、子供の居ない、第4代将軍の足利義持に対して「義持の猶子となって、将軍に就きたい」と申し出ていたようですね。
しかし、足利義持は、亡くなるにあたって、後継者を決めることなく、第6代将軍(第5代将軍の足利義量は、すでに、死去)は、くじ引きで決めることになる。
この、くじ引きで第6代将軍となったのが、足利義教で、将軍になるという期待を持っていた足利持氏が、足利義教に反抗的になるのは、当然とも言える。
さて、特集の中心である「応仁の乱」については、かつて、ベストセラーになった、この本に詳しい。
なかなか、その経緯が、難解で、分かりづらい「応仁の乱」ですが、なかなか、簡単に、まとめるというのは、難しい。
個人的に興味を持っているのは、西軍に迎えられた「西陣南帝」ですが、なかなか、詳しく語られる訳もない。
ちなみに、この「応仁の乱」は、戦国時代の始まりと言われていますが、今では、この「応仁の乱」よりも、管領、細川政元が、クーデターによって第11代将軍、足利義稙を廃し、第12代将軍に足利義澄を就けた「明応の政変」が、戦国時代の始まりと言われているようです。
戦乱の絶えない室町時代。
その中でも、将軍が、第15代まで、延々と続いたのは、興味深いところですね。