古代の日本は、縄文時代から、弥生時代に移行して行く訳ですが、北海道、東北北部は、縄文時代から、弥生時代ではなく、「続縄文時代」に移行することになります。
この「続縄文時代」「続縄文文化」とは、何か。
これまで、全く、考えたことは無かった。
上の本から、この「続縄文文化」「続縄文時代」について。
想像も加えながら。
紀元前四世紀前葉、東北の北部で、水田稲作が始まります。
この頃、北海道では「続縄文文化」が、始まります。
これは、戦前の学者が、縄文時代晩期の直後の土器「続縄文式」と名付けたのが始まりだということ。
さて、そもそも「続縄文文化」とは、何なのか。
続縄文文化も、縄文文化と同じく、狩猟、採集が、生業であることには、変わりない。
しかし、漁撈については、大きな変化があるそうです。
つまり、「続縄文時代」は、単純に、「縄文時代」が、継続されていた訳ではない。
縄文文化では、北海道では、ニシン科、アイナメ科、カレイ目を中心に、比較的、バランスの取れた漁撈を行っているということ。
しかし、続縄文文化では、サケ科の骨が急増し、それは、主要な食糧源であるエゾジカを上回るほどの量が出土するそうです。
これは、北海道全体で確認される現象だということ。
ちなみに、道央では、サケ科。道南では、ヒラメ。道東では、メカジキへの依存度が高まるそう。
この、ヒラメを取ったと思われる道具に、「魚形石器」というものがあるそうです。
この魚形石器とは、釣り針の軸部、錘、疑似餌の役割を兼ねたもので、道南、道央で、続縄文文化の前期に使われ、そのうち、姿を消す、不思議な道具だそう。
かつて、北海道では、寒冷のため、水田稲作が出来なかったと考えられていたそうですが、今では、漁撈中心の生活の方が、必要な食糧を、効率的に得ることが出来たので、水田稲作は、必要なかったと考えられているそうです。
また、続縄文時代になると、居住地にも変化が見られるそうです。
縄文時代には、段丘、台地の上にあった遺跡が、オホーツク海沿岸では、砂丘上に移ることになる。
道東の太平洋側でも、遺跡は、海に面した場所に移動。
道央でも、低い低地に、遺跡が移動し、これは、川を遡上して来るサケ科の魚を捕るためだろうということ。
また、続縄文文化では、副葬品を持つ墓が出現するということ。
朱猟具や土器などの日用品、首飾りなどの装身具が、主だそうです。
北海道では、縄文時代晩期後半から、大量の石鏃を副葬する例が見られるそうで、理由は、よく分からないということ。
また、沖縄でしか採れない貝で作った腕輪や、佐渡で作られたと思われる管玉、どこから来たのか分からない琥珀なども、副葬品に見られるそう。
広く、交易が行われていたことが分かる。
この「続縄文文化」が続く、北海道、東北の北部では、日本で、弥生時代以降に登場した「国」というものが作られなかった。
これは、なぜ、でしょう。
想像をしますと、やはり、自然の恵みに頼って生活をしている分には、大きな集団は必要ないですし、強いリーダーも必要が無い。
そのために、大きな人の集団であり、集団社会の規律を持つ「国」というものが成立しなかったのではないでしょうかね。
弥生時代に、日本で「国」というものが生まれるのは、水田稲作によって、「富」を、人間自身が、意図的に、「生産」することが可能になったことで、いかに、効率良く、その「富」を「生産」するのか。そのために、大きな人の集団と、その集団を統率する、強い、優れたリーダーを必要とした。
そこに、「国」が、生まれることになる。
そして、「国」という、大きな人の集団が生まれれば、当然、より、大きな「富」を求めて、「国」と「国」との「戦争」が行われることになる。
もちろん、大きな人の集団、「国」が成立しなかったからと言って、「続縄文文化」の北海道でも、小さな集団の、いわゆる「縄張り争い」みたいな、対立、暴力は、あったはずだと思われます。
人間ですから、より、多くの「富」が欲しいという「欲」は、必ず、あるもの。
平安時代の後半くらいから、いわゆる「和人」が、北海道の南部に、侵出をして来る。
経緯は、この本に、詳しい。
この「和人」に対しては、蝦夷地で、狩猟、採集の文化を続けていたアイヌ民族の人たちが、時に、大規模な反抗をしている訳で、狩猟、採集をしている人たちが、「富」に関心の無い、穏やかな性格だった訳ではない。
やはり、自分たちの利益、富に対しては、人間は、敵に対して、戦うもの。
それは、文化とは、関係の無いものなのでしょうね。