さて、弥生時代から、古墳時代への変化は、どのように行われたのか。

この本から。想像も交えながら。

 

 

古墳時代の特長とは、巨大な「古墳」を作ること。

なぜ、当時の人たちは、巨大な古墳を作ったのでしょう。

これは、「祭祀」のため、と、言うことになるようですね。

 

巨大な古墳を作り、その上で祭祀を行うようになったのは、二世紀半ば、中国地方が始まりのようですね。

岡山県の楯築墓、そして、島根県の西谷墳墓群3号墓など。(墳丘。50から80メートル)

かつては、この巨大な古墳による祭祀は、近畿地方の優位の元で、中国地方、中部地方の勢力が協調することで、近畿地方の中枢に、大規模な古墳が作られるようになったと解釈されていましたが、今では、筑紫、吉備、出雲、讃岐の集団指導体制の元で、大和に大規模な古墳が作られるようになったと解釈をされているそうです。

つまり、近畿地方の優位性は、存在をしなかったと、今では、考えられているということのよう。

 

弥生時代の中後葉から、末期にかけて、日本列島では、気候が大きく変動したそうです。

約400年続いた、気温の高い、乾燥期から、雨の多い、冷涼な湿潤期に変わったということ。

このため、低地に、水田や集落を持っていた人たちが、住む場所を失い、流動化することになる。

更に、二世紀には、降水量が、急に増大したということ。

人々の流動化は、社会の不安定化をもたらします。

 

恐らく、社会が不安定化をするということは、その地域をまとめるもの、この当時では「祭祀」というものが重要だったのでしょう。

 

この頃、「都市」と呼ばれる場所が、誕生します。

 

この「都市」とは、「広域移動する土器の出土」や「街路の計画的に配置された、倉庫、居館、工房、陵墓などの存在」が挙げられるということ。

奈良県の「纏向遺跡」や、福岡県の「比恵、那珂遺跡」など。

これらの都市は、広範囲の人が、行き来をする中心、つまり「バブ」になっていたと考えられる。

 

この頃、三世紀前葉頃に、博多湾を窓口とした「博多湾貿易」が始まったと考えられるよう。

つまり、外国の物資が、博多湾を通じて、日本の中に入って来る。

海外との交易は、紀元前三世紀頃から始まっていたようで、弥生時代後期になると、その交易ルートの途中に「ハブ」と言える拠点が出来ることになる。

それが、「比恵、那珂遺跡」や、岡山県の足守川流域などで、その中で、突出した存在となったのが、「纏向遺跡」です。

この「纏向遺跡」の中から、「纏向型前方後円墳」が誕生することになります。

 

まず「纏向型前方後円墳」について。

 

この「纏向型前方後円墳」とは、「前方部が未発達な前方後円墳の総称」ということになります。墳丘は、100メートル以下で、副葬品の中に、中国鏡が含まれないものもある。

この頃、まだ、個人には、中国鏡の所有権は無かったと考えられるよう。

 

弥生時代中期頃から、吉備、出雲で、巨大な古墳が作られ始め、それは、弥生時代の後期の「纏向石塚」まで、墳丘は、次第に大きくなって行く訳ですが、そこに、突然、超巨大な「箸墓古墳」(約280メートル)が登場する。

この「箸墓古墳」は、定型化した前方後円墳となります。

 

古墳時代が、何時、始まったのか。

色々と、説があるそうですが、この「箸墓古墳」の登場は、決定的なもので、それ以降を、古墳時代とするのは、異論はないのでしょう。

 

この「前方後円墳」とは、弥生時代に、各地に存在した墓の要素を統合しながら、新たに創造された墓ということ。

 

大型の墳丘と、その墳丘状での祭祀は、吉備や、出雲から。

葺き石は、出雲から。(四隅突出型墳丘墓)

竪穴式石室は、瀬戸内東部から。

豪華な副葬品は、九州北部から。

 

副葬品には、鉄製の武器や、玉などの装身具、中国鏡などがありますが、当時、貴重な品々を墓の中に収めるということは、葬られた人の身分や財力を示すことになる。

弥生時代後期の中頃の、九州北部や近畿北部の人たちは、墳丘の見た目よりも、豪華な副葬品の方を重視していたようです。

 

さて、岡山の楯築墓から見つかった「特殊器台」というもの。

 

この「特殊器台」は、高さが1メートル以上もあり、上に「特殊壺」と呼ばれる土器を置いて、使っていたそうです。

元々は、川沿いや、谷筋などで、水の祭祀を行うために使われていたもののようですが、この楯築墓では、人を葬送するために使われたと思われる。

この楯築墓の特殊器台には、元々、農耕儀礼のために使われた文様が記されているそうで、他にも、楯築墓からは、中国思想の龍の思想を象徴する弧帯文の記された「弧帯石」も見つかっているそうで、楯築墓に葬られた人の呪術性を見ることが出来る。

 

実は、元々、巨大な墓に葬られたのは、一人、つまり「個人」という訳ではなかったそうですね。

岡山の楯築墓でも、複数の人が埋葬されているよう。

一人につき、一つの墓という風習が生まれたのは、近畿の中央部の「方形周溝墓」という墓が最初のようです。

 

気候変動による、人々の流動化。

近畿地方での、「方形周溝墓」という「個人墓」の発達。

そして、纏向遺跡と、纏向型前方後円墳の誕生。

この纏向型前方後円墳は、鹿児島から福島まで広がっているそうです。

しかし、正式な発掘調査の例は、少ないということ。

纏向型前方後円墳で、代表的なのは、箸墓古墳の東300メートルのところにある「ホケノ山古墳」だそうで、築造は、230年を遡ることはないだろうということ。

 

元々、弥生時代、墳形は、「方形」が主流だったそうですね。

それが、吉備、讃岐、大和などで、「円形」の墳形が、首長の墓に採用が始まる。

なぜか。

 

これには、中国の思想である「天円地方」という考えが影響しているのではないかという説があるそうです。

つまり「円」が「天」で、「方」が「地」。

そして、三世紀頃に、前方後円型の墳墓が、現れ始める。

つまり、「円」の部分に、死者を葬り、「方」の部分で、祭祀を行うということ。

 

埋葬施設に関しては、「竪穴式石室」と「割竹型木棺」という組み合わせが、三世紀に、瀬戸内東部で始まるということ。

そして、この頃から、単独埋葬となるそうです。

棺内を真っ赤に染める「水銀朱」は、元々、九州北部に見られたもので、その後、吉備、出雲、丹後の前方後円墳に引き継がれたそう。

木棺を据え付ける「粘土床」や、竪穴式石室の天井を分厚く粘土で覆う装置は、弥生時代には見られないということ。

 

さて、前方後円墳の副葬品として重要なものに「中国鏡」があります。

 

この「中国鏡」は、製作された上限年代が分かっているので、この中国鏡が副葬された古墳の築造時期を、推定することが出来ます。

 

また、この中国鏡は、弥生時代には、「共有」することに価値があり、共有することで、結びつきの機能を果たしたということのよう。

そして、古墳時代には、この中国鏡は、どのくらいの大きなものを、何枚、持っているのかということで、鏡の保有者が、格付けをされることになる。

 

瀬戸内の東部以東の東方地域に、中国鏡が見られるようになるのは、弥生時代後期の前葉だそうです。

この段階では、まだ、集落に、破片が廃棄をされた状態で見つかるそう。

しかも、破片同士で、接合できるものはないそうで、元々、破片だったものが、大陸から輸入されたと考えられるそう。

 

九州北部以外で、中国鏡が副葬されるようになるのは、三世紀の前葉。纏向型前方後円墳では、壊れた鏡が、一枚だけ、副葬されるのが普通だそうです。(ホケノ山古墳は例外で、完形の鏡が一枚と、破鏡が複数)

しかし、壊れた鏡とは言え、副葬されるということは、その鏡が、集団の所有ではなく、個人の所有だったことが分かります。

そして、定型化した前方後円墳では、完全な中国鏡が、複数、副葬されることになる。

三角縁神獣鏡や、三国西晋鏡が、近畿を中心に、関東や九州にかけて広域に分布することになる。

三世紀後半には、中国鏡を模した「倭鏡」も生産され、流通する。

 

まとめると、一世紀後葉には、廃棄された状態で、分割された鏡が、東方地方で出土するようになる。この頃、まだ、破鏡が副葬されるのは九州北部に限られる。

三世紀前葉には、破鏡とは言え、中国鏡が副葬されることが多くなる。後漢後期の漢鏡七期の鏡。二世紀後半以降に作られた画文縁神獣鏡など。まだ、破鏡や破片が、一枚、見つかるだけの単面副葬の場合が多い。しかし、九州北部以外でも、鏡が、個人の所有になったことが分かる

三世紀半ばには、定型化した前方後円墳が登場し、その大半が、完形の三角縁神獣鏡を多面副葬することになります。

 

この「三角縁神獣鏡」は、四期に分けることが出来るそうです。

そして、半世紀程度の期間、作られていた可能性があるということ。

 

さて、この「鏡」ですが、なぜ、「鏡」が、重要な役割を持つものになったのか。

 

弥生時代から「鏡」と並んで、重要なものだったのが、鉄の「剣」と「刀」です。

鉄剣は、弥生時代に広い範囲で共有され、瀬戸内東部以東の地域では、二世紀から三世紀の前葉に、副葬されるようになります。

鉄刀は、九州北部を除けば、日本海沿岸の首長しか、所有していなかったということ。

ちなみに、日本海側は、鏡の所有は、薄かったようです。

 

また、弥生時代後期に、祭祀にとって、重要なものだった青銅器、つまり、「銅矛」や「銅鐸」は、二世紀後半から、二世紀末にかけて、広い範囲で、姿を消します。

 

九州北部、近畿、東海では、弥生時代後期、青銅器による祭祀が行われていました。

この中で、近畿、東海では、明らかな墳墓が登場するのは遅れるそうです。

 

弥生時代後期、地域社会をまとめるための祭祀として、銅矛、銅鐸といった「青銅器」が用いられていた訳ですが、この「青銅器」を祭る祭祀が、地域のリーダーを祭る「巨大な墳墓」による祭祀に、変化をして行くことになる。

そして、「巨大な墳墓」である古墳に、重要な副葬品として「鏡」が祭られる訳ですが、この「鏡」は、磨き上げられた金属光沢を特色とする武器型青銅器である「銅矛」「銅剣」と、大きくて鮮明な鋳造文様を持つ造形性の高い「銅鐸」の役割を、一つにしたものだという説があるそうです。

つまり、「鏡」は、表に、金属光沢と、裏に、鋳造文様を持つ。

そのため、祭祀の中心は、銅鐸、銅剣、銅矛から、鏡に移行をして、前者は、社会から消えることになる。

ちなみに、古墳に飾られる「特殊器台」もまた、銅鐸の代わりとなったと思われるそう。

 

古墳時代が始まったのは、「巨大な古墳」を使った「祭祀」によって、集団をまとめようという意図から、と、言うことになるようですね。

なかなか、面白い。