日本の弥生時代、一つの指標となる「水田稲作」について。

この本から。個人的な想像も交えながら。

 

 

日本の縄文時代、人々は、狩猟、採集が中心の食事をしていました。

もっとも、縄文時代には、アワ、キビといった穀物の栽培が行われていて、自分たちで食糧を生産するとうことを、全く、しなかった訳ではない。

しかし、縄文時代は、様々な食糧の確保を行っていて、アワ、キビの栽培が、食糧確保の中心だった訳ではない。

あくまでも、アワ、キビの栽培は、多くの食糧確保の手段の中の一つ。

 

しかし、そこに、「水田稲作」というものが、登場します。

 

日本で、水田稲作が、最初に行われたのは、今の福岡県にある早良平野だそうです。

玄界灘に面する、平野の中で、日本の水田稲作が始まった。

それは、紀元前10世紀の頃だそうです。

 

かつて、日本の水田稲作は、縄文時代に行われていた、アワ、キビの栽培から、畑作に進化をし、更に、初期のレベルの稲作から、高度な灌漑式稲作に進化をしたと考えられていたようですが、それは、間違いだったそうです。

 

この早良平野では、人々は、アワ、キビの栽培を行うことなく、水田稲作を始め、最初から、完成された灌漑式水田稲作として誕生したということのよう。

これは、恐らく、朝鮮半島から、水田稲作の技術を持った人たちが、海を渡り、早良平野で、水田稲作を始めたということになるのでしょう。

 

この九州北部、玄界灘沿岸地域、早良平野で始まった水田稲作は、どのようにして日本列島に広まって行ったのか。

 

この灌漑式水田稲作は、その技術を持った人の移住や、隣接する地域に住む人が、その技術を学んで、自分たちの土地で水田稲作を始めることで、徐々に、広まって行ったのでしょうが、どうも、中部地方南部、関東地方南部では、この水田稲作は、なかなか、広まらなかったそうです。

この地域で、水田稲作が始まるのは、紀元前300年頃ということのようで、それまで、約500年に渡って、アワ、キビの栽培が続いているということ。

 

なぜ、なかなか、この地域では、水田稲作が普及しなかったのか。

それは、恐らく、その必要が無かったから、と、言うことになるのではないでしょうかね。

つまり、水田稲作を行わなくても、十分な食糧を確保することが出来ていた。

そのために、水田稲作を受け入れ、わざわざ、生活環境を変える必要も無かったのではないでしょうか。

 

東北地方では、基本的に、水田稲作を行うことは無かったようですが、青森県の垂柳遺跡や、弘前市の砂沢遺跡では、水田の跡が、発見をされているそうです。

垂柳遺跡は、紀元前3世紀頃、砂沢遺跡は、紀元前4世紀のもの。

九州北部で、水田稲作が始まってから、約600年が、経っている。

 

これら、東北地方北部の水田の遺跡は、地域に、連続的に広まったのではなく、日本海側の航路を北上するように、転々を、散在しているということ。

恐らく、水田稲作の技術を持った人が、舟に乗って、日本海側を北上し、水田稲作が出来そうな場所を見つけて、定住をしたということになるのでしょう。

 

しかし、これら、東北北部で、水田稲作をしていた人たちは、この稲作を、生業の中心にしていた訳ではないそうです。

つまり、縄文時代の人たちと同じように、水田稲作は、他の多くの食糧確保の手段の中の一つに過ぎなかった。

 

そして、紀元前1世紀の前半、約300年続いた弥生時代中期の、乾燥、温暖な気候が終わり、降水量の増加と、低温下が日本列島で起こったそう。

その時、この垂柳遺跡などの東北北部の水田は、大規模な洪水によって埋もれ、そのまま放棄され、水田稲作を再開することはなく、この地域では、弥生時代ではなく、続縄文文化へと進んで行くことになります。

 

さて、この水田稲作が、地域の人々の生業の中心となると、まず、周囲の堀で囲った「環濠集落」が登場します。

この「環濠集落」が、最初に、九州北部で確認されるのが、紀元前9世紀の中頃。

 

そして、その集落の中で、「有力者」が生まれ、「格差」が生まれることになります。

この「格差」の登場は、埋葬をされる時に、「副葬品」を持つのかどうか。

また、葬られる場所によっても、「格差」が分かるそうです。

そして、この「格差」が、代々、継承をされていることも確認出来るそう。

 

そして、武器によって殺害されたと思われる人たちの骨が見られるようになって来る。

つまり、武器を持った集団と集団が、争いを始めるようになる。

戦争の始まりです。

 

やはり、水田稲作の始まりによって、「集団」の統率が、必要になれば、その「集団」を指導する「有力者」が生まれることになる。

そして、水田稲作によって、安定的な「富」を確保することが出来るようになれば、その「富」を持つ者、持たない者で、「格差」が生まれることになる。

そして、その「富」を奪い合うことで、「戦争」が始まることになる。

 

この社会の仕組みは、水田稲作の始まる弥生時代に生まれ、今も、根本的には変わらないということですね。