映画「トータル・リコール」を観賞。

公開は、1990年。

 

 

この映画は、大好きで、これまでも、何度か、観賞している。

問題は、映画全体が、主人公「クエイド」の、夢なのか、どうか。

 

ネットでの情報を見ると、全ては、クエイドが、リコール社で見た「夢」であるということで、結論が出ている。

しかし、そこは、曖昧な方が、色々と、考えることが出来て、面白いと思うのですが。

 

主人公は、アーノルド・シュワルツェネッガーが演じる「クエイド」という男性。

クエイドは、地球で、土木作業の肉体労働をしている。

しかし、クエイドは、毎日のように、火星での夢を見ていた。

果たして、この夢は、何を意味しているのか。

 

そして、どこか、満たされない毎日。

毎日、夢に見る火星に行ってみたいという気持ちもある。

そんな時、現実のような「夢」を見せてくれるという「リコール社」の宣伝を見る。

クエイドは、関心を持ち、リコール社に、行ってみることに。

 

リコール社に行ったクエイドは、「別人になって、旅をすることも出来る」という話を聞き、自身が「諜報員」として大活躍をし、火星を救うという夢を選択することに。

しかし、そこで、異常が起きて……。

 

ここまでが、導入部分。

ここから先が、「夢」なのかどうかという点は、映画の展開では、曖昧にされている。

 

クエイドは、自分が、記憶を消され、別人にされ、監視下に置かれていたということを知る。

なぜ、そのようなことをされていたのか。

それは、自分自身が、裏切り者だったため。

 

火星を支配しているのが「コーヘイゲン」という人物で、コーヘイゲンは、自身に反抗しているゲリラ組織のリーダー「クアトー」の居場所を探ろうと、「ハウザー」という部下を、ゲリラ組織に潜入させたのだが、このハウザーが、コーヘイゲンを裏切り、ゲリラ組織の側についてしまった。

そのため、コーヘイゲンは、ハウザーの身柄を確保、拘束し、「クエイド」という人物として記憶を植え替え、地球で、監視下に置いていた。

しかし、クエイドが、リコール社に行って、記憶を操作しようとしたことで、この記憶が、蘇ろうとしてるということを疑った、監視役のクエイドの偽の妻「ローリー」と、その仲間で、コーヘイゲンの部下「リクター」は、クエイドの殺害を実行に移す。

 

リクターに追われる身となったクエイドは、記憶を改ざんされる前に、仲間に託してあった鞄を受け取り、その鞄の中にあったハウザー(つまり、自分自身)のメッセージを見て、真実を知る。

ハウザーは、クエイドに「自分自身を、こんな目に遭わせたコーヘイゲンに復讐をしろ。そのために火星に行き、クアトーと接触をしろ」と話す。

そして、クエイドは、火星に行く。

 

記憶を消される前のクエイド(つまり、ハウザー)は、色々と、手配をしていた。

その手配で、クエイドは、ゲリラ組織の女性「メリーナ」と接触。

そのメリーナは、何と、クエイドがリクエストをした、理想的な女性と、瓜二つ。

メリーナは、ハウザーが、記憶を改ざんされ、以前の記憶を失い、今は、クエイドとして生活をしているという話を、信じなかった。

しかし、クエイドが、コーヘイゲンの部下に、命を狙われていると知り、クエイドの話を信じることに。

 

リクターたちは、火星でも、執拗に、クエイドの命を狙って、追いかける。

そして、クエイドは、メリーナたちの協力で、ついに、ゲリラ組織のリーダー、クアトーと面会する。

 

しかし、この一連の流れは、コーヘイゲンの仕掛けた謀略だった。

コーヘイゲンは、クアトーの居場所を突き止めるために、他人の心を読むことが出来るミュータントたちを騙さなければならないと考える。

そのために、信頼のできる部下、ハウザーを、ゲリラ組織に潜入させ、ゲリラ組織の信頼を得た上で、身柄を拘束し、記憶を改ざん。

ハウザーを、心の底から、ゲリラ組織に心を寄せる人物、クエイドに変えてしまうことで、ミュータントを欺き、クアトーに接触させ、その居場所を突き止める作戦だった。

 

ちなみに、このコーヘイゲンの謀略は、クエイドの存在に真実性を持たせるために、リクターにも秘密にされていた。そのため、リクターは、コーヘイゲンの意思に反して、本当に、クエイドを殺害しようとしてしまう。

しかし、それが、逆に、クエイドの存在に、リアリティを与えることに貢献したということになる。

 

事前に、録画をされていたハウザーの映像を見せられ、事の真実を知ったクエイドは、どうしても、それを受け入れることが出来なかった。

そして、元のハウザーに戻すための記憶の操作を、何とか拒絶することに成功し、クアトーが、死ぬ間際に言った「リアクター」の起動のために、行動することになる。

 

この「リアクター」とは、かつて、この火星に居たと思われるエイリアンが制作をしたもので、この「リアクター」を起動させると、火星は、大気に包まれ、空気の不足に悩まされることが無くなる。

空気の供給をコントロールすることで、火星を支配していたコーヘイゲンにとっては、どうしても、この「リアクター」の起動は、阻止しなければならない。

コーヘイゲンは、リクターに、クエイドの殺害を許可。

しかし、リクターは、クエイドの殺害に失敗し、逆に、殺されてしまう。

そして、クエイドは、「リアクター」の起動に成功し、火星の住民は、救われることになる。

 

この展開は、全て、クエイドが、リコール社でリクエストをした、夢の物語と同じ。

そのため、この映画の物語が、「リコール社の見せた夢」なのか、それとも、クエイドの体験した現実なのかが、映画を鑑賞した人の疑問となる。

 

この「記憶」というもの。

 

人は、自分の持っている「記憶」によって、自分自身の人生を確認し、それを、自分だと思っている。

つまり、記憶を失ってしまえば、身体は生きていたとしても、それまで、生きて来た自分の人生とは、全く、切り離され、主観的には、別人ということになってしまう。

人は、記憶によって、自分という人間のアイデンティティーを保っていると言えるのでしょう。

 

では、ある人に、全く、その人が経験をしたことがない記憶を植え付けた場合、どうなるのか。

例えば、ある人が、生きて来た人生の記憶を、別の人に移し替えたとしたら。

恐らく、その人は、別人の記憶を「自分自身だ」と思ってしまう訳で、それは、映画の中で、ハウザーが、自分自身を、クエイドという人間だと思い込んでしまったのと同じ。

これは、考えてみると、怖いこと。

 

しかし、人の「記憶」というものは、知らず知らずの内に、変わってしまうものでもあるようです。

つまり、恐らく、ほぼ、全ての人が、今、自分の持っている過去の記憶が、確かに、自分自身が体験をしたものだったとは限らない。

もしかすると、「自分が、このようなことを経験した」という記憶は、実際には、そうでは無かったのかも知れない。

しかし、本人にとっては、記憶の中の自分が、真実の、自分の生きて来た歴史に違いない。

 

人の「記憶」というものが、時間が経つにつれて、どのように変わってしまうのか。

具体的な例として、かつて、テレビ朝日で放送されていた「あいつ今何してる?」という番組から、個人的に、面白いと思ったものを挙げてみようと思います。

この「あいつ今何してる?」は、芸能人が、もう一度、会いたいと思った、かつての知り合いに再会するという内容の番組。

芸能人は、記憶に基づき、その会いたい相手の話をするのですが、実際に、その相手に会って、話を聞くと、芸能人本人の記憶とは、大きく異なることが、度々ある。

つまり、実際に体験をしたことが、記憶の中では、大きく変わってしまっていたというもの。

 

まずは、黒木瞳さんの例。

 

黒木さんは、高校生の時に出会った、同学年の男性に会いたいという話をしていた。

黒木さんの記憶では、その男性は、修学旅行の時に、なぜか、ギターを持って来たということ。

そして、宿泊先で、その男性の弾くギターに合わせて、みんなで歌を歌い、それに、とても感動したということ。

そして、帰りの列車の中で、どうしても、その男性と話がしたいと思い、その列車の中で、一晩、ずっと、その男性と、二人で、話をしていたというもの。

 

しかし、番組で、その男性を探し、会って、話を聞いてみると、その内容は、かなり、違っていた。

 

男性によれば、修学旅行に、ギターは、持って行っていないということ。

しかし、似たような出来事は、あったということ。

それは、学校の学校祭の打ち上げで、ある家にクラスメイトたちが集まってパーティーをした時。

そこで、その男性は、ギターを弾き、それに合わせて、みんなで、歌と歌ったことがあるという話。

 

そして、修学旅行の時、帰りの列車の中で、二人で、話をしたのは、事実。

しかし、それは、夜通し、話した訳ではなく、消灯時間までの、わずかの間だったということ。

 

二人の記憶の中には、同じ出来事を元にしても、これほどの差がある。

つまり、黒木さんの場合は、知らず知らずの間に、記憶を、美化していたということになるのではないでしょうかね。

 

次は、東山紀之さんの場合。

 

東山さんは、中学生の時の同級生の女性に会いたいということで、その女性についての記憶を、番組で、話していた。

それは、その女性と一緒に遊びたいと思い、駅前で待ち合わせをしたものの、どうしても、自分は、恥ずかしさから、待ち合わせ場所に行くことが出来ず、結局、約束を、すっぽかしてしまったというもの。

女性は、自分のことを、どう思っていたのか、知りたいという話だったと思います。

 

しかし、番組で、その女性に会い、話を聞いてみると、東山さんの記憶とは、全く、違うものだった。

 

その女性の話では、東山さんは、約束を、すっぽかした訳ではなく、ちゃんと、駅前に来たということ。

しかし、駅前に来たのは、東山さん一人ではなく、東山さんの友達も一緒だったということ。

女性の方は、東山さんが一人で来るものと思っていたので、三人で一緒に遊ぶといっても、つまらないので、すぐに、自分は帰ってしまったということ。

 

この、二人の記憶の違い。

 

恐らく、東山さんは、一人で、女性との待ち合わせ場所に行くことが出来なかった後ろめたさを、知らず知らずの間に、自分の都合の良い記憶に変えてしまったのではないですかね。

 

このように、「記憶」とは、知らず知らずの間に、変化をしてしまうもの。

果たして、今、自分が持っている「記憶」もまた、実際に、自分が体験をしたものかどうか。