さて、宮沢賢治「貝の火」について。

 

 

主人公は、子ウサギの「ホモイ」という子。

ホモイは、川に流されていた「ひばり」の子を助けたことで、その「ひばり」の親子から「貝の火」と呼ばれる宝珠を貰うことに。

 

宝珠を貰ったホモイは、野原の動物たちから、畏敬の念で、見られるようになります。

母に、そのことを話すと、「お前は、立派な人になったんだから」と言われ、ホモイも、その気に。

そして、ホモイは、動物たちに、尊大な態度を取るようになります。

 

父は、「そんなことをしていると、宝珠が駄目になるぞ」と、ホモイを戒めますが、宝珠は、なぜか、ますます、綺麗になって行く。

父は、怪訝に思いますが、宝珠の様子を見て、ホモイは、ますます、尊大に。

 

意地悪なキツネもまた、ホモイの手下になります。

キツネの口に乗せられて、ホモイもまた、尊大な態度が、ますます、エスカレート。

父は、ホモイとキツネを、厳しく、叱りますが、やはり、宝珠は、ますます、綺麗に。

 

そして、ホモイは、ついに、キツネに、裏切られる。

キツネに脅されたホモイは、怖くなって、逃げ帰る。

そして、宝珠にも、変化が。

 

綺麗な炎が見えていた宝珠の中に、白い曇りが。

事情を聞いた父は、キツネのところに行き、キツネに捕まえられていた鳥たちを助けてやる。

父は、鳥たちと一緒に、家に帰りますが、宝珠は、ただの白い石になっていた。

そして、宝珠が砕け散ると、その粉が、ホモイの目に入り、ホモイは、目が見えなくなってしまう。

 

以上、物語の粗筋です。

宮沢賢治は、この物語で、何が言いたかったのでしょう。

 

いかにも、童話らしい童話という感じの物語ですが、なぜ、ホモイが、悪い方向に行くたびに、「貝の火」は、綺麗になって行くのか。

この点が、読んでいて、どうも理解の出来なかったところ。

 

ウィキペディアを見てみると、賢治は、この作品を「因果律の中で、慢心を持った者が、転落する」というモチーフで書いたということ。

確かに、それは、そうなのですが、個人的には、どうも、やはり「貝の火」の、物語の中での役割には、違和感があるところです。

 

さて、この「貝の火」とは、「オパール」を指す言葉だそうですね。

非常に不安定で、脆く、取扱いの厄介な鉱物だということ。

賢治は、この「貝の火」「オパール」を、ひとたび得た名声や権威のもろさを表すものとして、物語の中で使っている。

 

確かに、それは、そうなのでしょうが、何となく、個人的な違和感は、拭えない。

この違和感が、何なのかは、上手く、説明の出来ないところです。

 

さて、この物語の中に、一つ、奇妙なシーンが。

 

それは、キツネの盗んで来たパンを、ホモイの父が、食べるシーン。

 

実は、この、キツネの盗んで来たパンは、ホモイが、最初に、父に見せた時、父は、怒って、「こんなものは食べない」と、地面に投げ捨て、踏みつけるんですよね。

しかし、その後のシーンで、父は、その、キツネの持って来たパンを食べている。

 

読んでいて、奇妙に思ったのですが、やはり、このシーンは、作品の中で問題になっているようで、研究の対象にもなっているそうですね。

賢治は、自分の作品に、何度も、手を入れ続けていたようなので、単純な間違いということは、考えられない。

何かの意図があって、矛盾を作り出しているのでしょうが、何なのでしょう。

 

この作品自体は、読みやすく、分かりやすく、面白いです。

 

賢治は、教師時代に、生徒も前で、この作品を朗読しているそうですね。

生徒の一人が、とても感銘し、その原稿を筆者したという逸話があるそうです。