旭川から東に流れる百間川が、南に、流れの向きを変えるところに、「正木城」があったそうです。
これは、南側、西大寺に向かう橋の上から、北にある「正木城」があったという丘を見たところ。
左に見える水面が、南に流れる百間川で、その先にある丘が、正木城のあった場所。
やや、西に移動。
水面が見えるのが、百間川。
中央、やや右にある丘が、正木城。
正木城のあった丘を、拡大。
この丘に、正木城があった。
丘の南端に主郭があり、北に向かって、複数の郭を組み合わせた連郭式山城だったようですが、北側は、住宅地の建設で削り取られて、詳細は不明ということ。
城は、天正年間に、正木大膳という人物によって築かれたと言われていますが、これも、詳細は、不明だということ。
この正木城には、伝承があり、築城が、天正17年(1589)で、正木大膳によって築かれたということ。
しかし、宇喜多直家によって、攻め落とされ、その時に、城主の正室だった玉尾は、娘の初瀬を抱いて、馬で、城から駆け下り、井戸に身を投げて、亡くなったということ。
その井戸は、百間川の河川敷にあり、後に、供養をした時、笄と櫛が浮かび上がったということで、「笄の井戸」と呼ばれ、今でも、井戸は現存しています。
しかし、ある人のネットでの考察を見ていると、恐らく、正木城が築かれたのは、室町時代中期の頃。
宇喜多直家は、天正9年(1581)には亡くなっているので、天正年間の後半に、城が落とされたのだとすれば、攻め落としたのは、宇喜多秀家ということになる。
城主の正室が、城から馬で駆け下り、井戸に身を投げたという話は、後世の創作であろうということは、容易に、想像が出来ます。
こちらは、やや、東に視線を移す。
正面に見える、高い山は、芥子山です。
もうすぐ、西大寺会陽ですね。
確か、会陽で奪い合う神木は、この芥子山まで、取りに行くんですよね。
その道中は、無言でなければならないという話。
今年も、大勢の男が、参加をするのでしょうね。