最近、貝塚跡の地表に散らばる貝殻を見て歩いていると、気になることが、いくつか。

そのため、また、灘崎文化センターに展示してある彦崎貝塚の出土品を見に、出かけることに。

 

こちら、彦崎貝塚から出土した貝殻。

 

 

 

さて、貝塚跡の地表で、多く、見かけるのは、上の写真、左端の「ハイガイ」のようですね。

 

この「アカニシ」という貝殻は、「磯の森貝塚」の地表に、転がっていました。

 

 

そして、このような、「マガキ」の殻も、多く、貝塚の地表に転がっています。

上の写真は、何か、他のものに付着している「マガキ」の殻です。

 

昨日、福田貝塚の地表に、カタツムリの殻のようなものがありましたが、やはり、食べていたようですね。彦崎貝塚の出土品の中にも、ありました。

 

中身が、ほぼ、無いような小さな巻き貝も、食べたのかなと思っていたのですが、やはり、食べていたんでしょうね。

彦崎貝塚の出土品の中にも、ありました。

小さな貝の貝殻。

 

さて、彦崎貝塚についての説明。

貰って来たパンフレットから。

 

縄文時代早期の彦崎貝塚は、キャンプサイト時な土地利用だったそうです。

つまり、必要な時期だけ、そこに移動して、生活をしていたということなのでしょう。

 

約6500年前に、児島湾が誕生し、海幸を糧にした生活にシフト。

この頃、彦崎貝塚での定住が始まったということなのでしょう。

この頃、漁撈具の進化も見られるそうです。

 

約6300年前の縄文時代前期の中頃、貝塚が形成される。

炉の跡も見つかっているそうです。

 

約6000年前、縄文時代の前期の後葉に、規模の大きな貝塚が形成される。

墓域、貯蔵域、作業域と共に、居住域が形成され、限られた土地の計画的な利用が始まる。

 

この縄文時代の前期後半から、全国各地との交流が見られるそうです。

これには、対馬海流、黒潮の影響が考えられるということ。

しかし、前期の末になると、他の地域との交流は減るようで、貝塚の形成も、小規模なものに留まるそう。

 

ちなみに、旧児島湾の周辺には、各地に貝塚が存在するようですが、今の児島半島の東の北岸は、貝塚の空白地帯になっているということ。

その辺りは、湧水地点が少なく、急な崖の地形となっていて、縄文人が居住可能な地形が少なかったということ。

確かに、今、見ても、そのような気がしますね。