戊辰戦争を終え、明治時代。

新政府軍の中心にあった大村益次郎は、新しい時代に、何をしようとしていたのか。

この本から、私見も交えながら。

 

 

徳川幕府が倒れ、新しい時代となる訳ですが、天皇を、このまま、京都に置いていては、都合が悪いと、大久保利通は、大坂への遷都を考えていました。

大久保は、色々と、そのための準備をしていましたが、最終的に、天皇は、江戸に移ることになります。

そして、明治新政府の中心は、東京に移る。

 

明治元年(1868)10月13日、天皇が、東京に入る。(ちなみに、12月には、一度、京都に戻り、翌年3月、再び、東京に。以後、天皇は、東京の皇居で暮らす)

東京で、明治新政府は、三條実美を中心とすることが決まる。

そして、東北地方の平定後、新政府の、新たな軍隊を、どのような組織にするか。

10月24日、軍務官副知事に任命された大村益次郎は、この問題に取り組むことに。

 

明治新政府は、直属の軍隊を持たない状態で、発足した。

戊辰戦争を戦った新政府軍は、諸藩の派遣した軍隊。

この諸藩の連合軍であった征討軍を、どうするのか。

 

大久保利通は、この諸藩の連合軍を、新政府が雇い入れ、再編して、直属軍にすることを構想していた。

一方、大村益次郎は、この諸藩による連合軍を解体し、全国規模で、階層を問わず、兵員を徴募することを構想していた。

 

東北地方の平定を終えた諸藩の軍隊は、それぞれ、政治的発言力を強めていました。

諸藩では、その統制に、苦慮することになる。

大久保利通の構想は、彼らを新政府の軍隊として取り込むことで、反政府の活動に向かうことを阻止しようという考えもあった。

 

10月16日、東北地方から東京に凱旋して来ていた諸藩の兵士たちに、帰国命令が出されていた。これは、藩の経済状況が逼迫していた諸藩にとっては、非常に大きな問題だった。

つまり、藩に戻っても、藩は、その軍隊を維持することが出来ない。そのため、多くの軍隊は、論功行賞を期待して、東京に残っていたよう。

11月15日、帰国するまでの費用は、新政府が出すので、早く、諸藩の兵士は、帰国をしろという命令が出される。しかし、大久保利通は、これに反対。

11月27日、大村益次郎は、東京に滞在する諸藩の兵士への費用の支出を打ち切ると通達を出す。同時に、諸藩に対して、石高に応じた兵士を差し出させ、東西両京の警備を命じる。

実は、大村益次郎は、薩摩藩、長州藩が、その軍隊を背景に、新政府での発言力を強めることを警戒していた。

そのために、征討軍の解体が、どうしても必要だと考えていたよう。

 

明治2年(1869)1月14日、大村益次郎と意見が対立した大久保利通は、大村益次郎に代えて、板垣退助を登用することを提案する。

 

この頃、木戸孝允は、すでに「征韓論」を主張していたそうです。これには、大村益次郎も賛同していた。この「征韓論」の目的は、戊辰戦争を戦った征討軍に、新たに「征韓」の目的を与え、国内への不満を回避させようというもの。

そのため、実際に、朝鮮半島に軍を送るということまでは、想定していなかったようです。

 

明治2年(1869)1月、大村益次郎の強い姿勢で、征討軍は、東京を去る。

しかし、大久保利通は、この征討軍を京都に駐屯させ、再び、東京に戻すつもりでいた。

しかし、大村益次郎は、2月19日、京都に居た征討軍に帰国を命じる。

これに対して、大久保利通は、京都の岩倉具視に働きかけ、4月3日、京都の薩摩、長州の軍隊を、東京に戻した方が良いのではないかと木戸に伝えて貰う。

4月12日、木戸が目指していた「版籍奉還」にも、この軍の力が必要だと岩倉、大久保に解かれ、木戸は、それに承知する。

4月13日、大久保は、京都の軍隊に、東京に向かうことを命じる。

しかし、三條実美から、この知らせを聞いた大村益次郎は、それを拒否し、軍の東京への移動は、中止となる。

 

6月2日、朝廷は、戊辰戦争を戦った将兵の軍功を賞する。

この戊辰戦争の論功行賞は、戦争中から、順次、行われていたようですが、その内容には、紆余曲折があり、延々と議論が続いていたそうです。

個人で、最も、高い殊遇は、永世禄2千石を与えられた西郷隆盛で、二番目が、大村益次郎の永世禄1千5百石だったということ。

大村益次郎が、新政府軍の中で、いかに、高く評価されていたかが分かる。

 

6月17日、薩摩、長州、土佐、肥前の四藩主の版籍奉還の奏請が、勅許される。

6月中に、これに習い、262藩が、版籍奉還を行う。

 

6月21日、版籍奉還後の兵制確定のための会議が始まる。

5日間に及んだ議論は、大村益次郎、大久保利通を中心に、激論となる。

大久保利通は、大村益次郎の構想に、真っ向から反対し、議論は、大久保の有利に傾き、大村益次郎の構想は、凍結されることに。

 

この頃、大村益次郎は、戊辰戦争で命を落とした将兵のために「招魂社」(後の靖国神社)を建てるための活動をしていた。

この発案をしたのは、木戸孝允。

いくつかの候補地の中から、益次郎は、6月11日、かつて、幕府歩兵の調練場のあった九段坂を、招魂社の建設地と決める。

6月19日、起工。建設が始まる。

大村益次郎は、度々、現場に足を運び、建設計画を主導する。

 

7月1日、大久保利通は、政府官員のリストを岩倉、三條に送り、大村益次郎に代えて、板垣退助を登用することを求める。

7月7日、大久保との対決に敗れた大村益次郎は、木戸孝允に、辞職と引退の意思を伝える。

招魂社の祭典日程が終了すると、益次郎は、辞表を提出。

しかし、7月8日、益次郎は、留任を命じられ、軍務官に代わって設置された兵部省の大輔(次官)に任命される。実質的には、兵部省のトップです。

 

木戸孝允との話し合いの結果、大村益次郎は、決意を新たにして、三條実美に、自身の構想する建軍プランを提出。

 

新政府軍は、海軍よりも陸軍を優先し、兵の徴募と士官教育を開始するべき。

それによって、政府軍を構成し、将来的には、それを全国に広げ「国民皆兵」を目指す。

 

そして、兵数は、政府が決めた軍事予算に従うこと。これは、三條が、益次郎に、軍事予算の概算を聞いたことによる返答で、益次郎は、軍事は、政府の決めた予算の中で行うべきと考えていた。

 

薩摩、長州、土佐、肥前といった戊辰戦争に戦功があった諸藩の意向に、新政府が左右されることを断固、拒否し、真に統一された「国軍」を建設するべきであると、益次郎は、この意見書で主張していた。

 

しかし、先の会議では、大村益次郎は、大久保利通に敗北し、自身の建軍プランは、凍結されていた。

そのため、益次郎は、東京を離れ、京坂地域で、自身のプランを実行することにする。

 

この頃から、大村益次郎は、しきりに、帰郷をしたがっていたようです。

東京を離れるのも、名目としては、帰郷のため、と、言うことだったようで、実際、郷里には、近いうちに帰ると、度々、手紙を出しているようです。

 

7月27日、大村益次郎は、東京を離れ、大坂に向かう。

実は、この頃、すでに、大村益次郎を殺害しようと付け狙っている人たちが居るということが把握されていた。

そのため、益次郎の大坂行きは、東海道を通るという触れを出し、木曽路を向かうことにする。そして、その旅の行程は、省内でも、極秘となっていた。

 

この旅の途中で、東京の岩倉から意外な知らせが届く。それは、薩摩の黒田清隆、村田新八が「これまで、大村の意見には反対していたが、よく、その趣旨を知ると、まことにもっともだということを理解したので、これからは、大村に協力をしたい」と言っているという報告。

 

8月13日、大村益次郎は、京都に到着。

8月14日、伏見の調練場で、兵士の調練を検閲。同地には兵学校もあり、そこには、かつての益次郎の門人、安達幸之助が居た。

益次郎は、京都周辺での仕事を、精力的に行う。

 

益次郎は、鴨川の東に、河東操練所を建設。フランス陸軍を範とした、上下士官の養成機関となる。伝習生は、山田顕義が選抜。山田は、長州から、約100名を選抜し、京都に送る。その中には、寺内正毅、児玉源太郎、乃木希典ら、後の陸軍の中心となる人たちが居た。

 

この頃、益次郎は、軍学校の建設を、第一に考えていた。

新政府には、統一された軍制、統一された兵式、統一された国軍の建設が重要だと考えていた益次郎は、軍事の本格的な教育機関が必要だという考えがあった。

また、京都から大坂、兵庫方面にも出張し、鎮台の建設地、兵学校用地の他、天保山方面での海軍の拠点化計画の相談なども、当局者と重ねている。

そのための人材登用も、着々と進めて行く。

 

8月28日、大坂で、緒方洪庵の妻、八重を訪問。この時、八重から、大坂の病院事情を聞く。益次郎は、大坂に居たオランダの医師、ボードインの処遇を、気に掛けていたようで、その待遇改善のための書状を、東京に送る。

9月2日、益次郎は、急用で、一時、京都に戻る。

 

9月4日、元京都守護職の屋敷だった兵部省の京都庁舎に出向き、仕事を終えると、三条の木屋町通りにあった宿所に戻った益次郎は、安達幸之助と、旧知の静間彦太郎と共に、二階奥の四畳半で、しばらく歓談し、酒食を共にする。

午後6時頃、宿に二人の来客があり、山田善次郎が対応。「益次郎に会いたい」と取り次ぎを頼む。

益次郎は「今日は、もう遅いから、公用ならば明日、私用ならば明後日にしてくれ」と善次郎に言い、善次郎は、来客二人に、その旨を伝える。

来客は「ぜひ、今晩、お会いしたく、わざわざ来たので、取り次いで欲しい」と頼み、善次郎が、再び、益次郎の元に行こうとしたところ、来客の二人が、後をつけて侵入。抜刀をして部屋に入ると、まず、善次郎を斬り伏せ、部屋の中で、上座に座っていた益次郎を斬りつける。

益次郎は、斬られながら、身をかわすが、その時、部屋の燈火が消え、部屋は、暗闇に。

安達と静間は、手元にあった短刀を抜いて、暗闇の中で、応戦。

手傷を負った安達は、「賊だ」と叫びながら、窓から、鴨川に脱出。しかし、そこにも賊が待ち受けていて、安達を益次郎と思い込んで、殺害。

続いて、窓から鴨川に出て来た静間も、殺害される。

その頃、宿所の玄関からは、賊の第二陣が、侵入していたが、一階の自室に居た吉富音之助と鉢合わせとなり、斬り合いとなる。しかし、鴨川の河原から、襲撃成功の喜びの声が聞こえると、賊は、吉富を置いて、その場から立ち去る。

 

この襲撃があった時、近くに済んでいた京都府大参事の槇村正直が、益次郎を訪ねる途中で、宿の近くに居た。

鴨川から、尋常ならざる声が聞こえたので、そちらに向かうと、5、6人が、慌てて、逃げて行くのが見えた。

河原では、誰かが、殺害されていた。

「誰か、来てくれ」と、槇村は叫んだが、誰も来ない。

明かりを取りに、近所である自分の家に戻ると、玄関から、「賊が入りました。槇村さま、敵を討って下さい」と声がした。そこには、負傷をして、血を流していた吉富が居た。

「大輔(益次郎)は、無事か」と聞くと、「分かりません」という答え。

槇村は、益次郎の宿所に戻るが、静まり返って、人の気配がしない。

鴨川の河原の遺体を確認すると、安達幸之助、静間彦太郎の二人で、益次郎ではなかった。

そこに、槇村の下人が、長州藩邸から、人を呼んで来た。

槇村は、彼らに益次郎を探すように指示すると、各所に知らせを送り、賊の追跡の手配をする。

自宅で、医師に、吉富の治療をさせていたところ、「大村様が、宿に居ました」と声が上がる。槇村が、宿に向かうと、益次郎は、玄関の間に、横たえられていた。

水を飲ませながら、介抱をし、「お怪我は」と問うと、「頭と手だ」と、益次郎は、答える。

益次郎は、「辞表を出しておいてくれ」と言った。

「どこに居たのですか」と聞くと、「押し入れの中だ」と答える。

医師によって応急措置が行われ、膝にも傷があることが確認される。

 

この襲撃では、安達幸之助、静間彦太郎、山田善次郎の三人が死亡。しかし、益次郎は、満身創痍ながら、一命を取り留めた。

 

大村益次郎の治療は、蘭方医の大村達吉を中心にして行われることになる。

京都兵部省が、現場検証を行う一方、伏見の兵営からは一個中隊が、警備のために駆けつける。

この日、益次郎の遭難報告書と辞表が提出される。

翌日、京都の太政官から、当座の治療費として、金250両が支給される。巻き添えになった者には、葬送、治療費として金200両が支給される。

 

9月8日、益次郎の遭難が、東京にも伝えられる。

10日、少弁、長岡惟忠が、慰問使として、京都に派遣される。

 

9月4日夜には、市中の捜索が始まる。更に、東海、東山、北陸、山陽、南海、西海諸道を街道筋、脇街道、宿場、村落まで、捜索の手は広げられる。

7日、福井藩の協力で、容疑者の四人が、逮捕される。

 

長州藩児玉若狭家来脱走、団伸二郎。

長州藩毛利筑前家来脱走、太田光太郎。

久保田藩、金輪五郎。

越後国府兵居之隊、五十嵐伊織。

 

11日、京都で、兵部省が、潜伏中の伊藤源助を捕縛。

伊藤を、厳しく、取り調べた結果、犯人や、犯行の動機が、分かる。

 

長州藩、神代直人。

信州伊那郡ナムクマ村郷士、関島金一郎。

土州藩、堀内誠之進。板野治郎。河野某。堀内了之輔。

以上、逃走中。

 

彼らが持っていた「斬奸状」によれば、大村益次郎が、日本の西洋化を進め、神州の元気、神州の国体を蔑ろにしていると、厳しく、批判している。

つまり、尊皇攘夷過激派の、新政府に対する憤りが、大村益次郎に向けられたということ。

 

9月7日、益次郎は、長州藩控屋敷移され、治療を続けることに。

16日、東京から来た慰問使の長岡が益次郎を見舞う。見舞金500両を贈る。

19日、仁和寺宮兵部卿の派遣した慰問使が、益次郎を見舞う。

 

益次郎は、まさに、満身創痍で、切断された動脈からの出血多量で、時折、昏睡状態となるが、何とか、持ちこたえ、大坂府医学校病院のボードインの診察を受けたいと訴える。

20日、大坂から、ボードインが、緒方洪哉と共に上京。早速、益次郎を診察する。

益次郎は、特に、右膝の傷が重傷で、化膿が進み、敗血症を起す可能性があり、右脚を切断するしかないという結論になる。

しかし、当時、政府高官の大手術には、勅許が必要だった。

 

10日1日、益次郎は、かねてから希望していた大坂への転院が決まり、大坂に向かう。

伏見で一泊し、翌日、大坂医学校病院に入院。

兵部省では、病院の長屋二軒を借り上げ、郡山藩兵一個小隊が、警備に当たる。

益次郎は、手術の勅許を待つ間、対処療法を続ける。

10月10日、妻のコトを上坂させて欲しいと、弟に手紙を出す。

16日、東京の三條実美に手紙を出す。内容は、医師ボードインの待遇改善を求め、軍事病院の設置を求めるもの。三條は、返書を出すが、それを、益次郎が読んだかどうかは、不明。

27日、益次郎の身体は、衰弱が進み、敗血症の症状も見られたため、勅許、兵部省筋の合議による決定という正規の術前手続きを待つことが出来ず、右下肢切断手術が行われる。

 

術後の経過は、あまり良くなく、益次郎の看護に当たっていた三瀬高子によれば、益次郎は、相当に、苦しんでいたということ。

この三瀬高子は、ボードインの通訳兼助手を務めていた三瀬周三の妻で、あのシーボルトの娘、イネの一人娘。ちなみに、三瀬周三は、シーボルトの弟子、二宮敬作の甥。

 

益次郎の症状は、東京にも伝えられ、会わせて、益次郎の遺言を聞きに来させるよう、求められる。そして、船越衛が、益次郎の元を訪れる。

この時、益次郎は、船越に「四斤砲を、たくさん揃えろ。今、その計画はしてあるが、この四斤砲を、他人に知られず、たくさん製造しておけ」と言ったということ。

 

この四斤砲は、前装施条式カノン砲で、当時の日本の技術水準でも比較的、容易に生産が可能で、分解すれば、運搬も容易で、日本の道路事情にも適していたということ。

恐らく、益次郎は、西国での士族の反乱を予想していて、この四斤砲の量産は、その対処をするためのものだったのでしょう。

 

11月4日、午後2時、益次郎の容体が急変。危篤となる。

5日、朝、一時、意識を取り戻すが、午後7時、亡くなる。享年、45歳。

 

益次郎は、遭難から亡くなる間の療養生活の中で、手帳に、書き残していたものがあるそうです。

それは、誰に見せる訳でもないもの。

その中に、あの長井雅楽の辞世の句もあったそうです。

 

なぜ、大村益次郎は、自分の死が近づいた時、長井雅楽の辞世の句を、手帳に書いたのか。

この手帳は、今、行方不明になっているということ。

 

さて、靖国神社には、大村益次郎の銅像がありますが、これは、日本で最初の西洋式の銅像だそうです。

あの、彰義隊を壊滅させた上野戦争の時の大村益次郎の姿を写したものだということ。

 

この大村益次郎による明治新政府、日本の国軍の設立の構想は、ほんの最初の最初の段階で、益次郎の死により、未完に終わる。

もし、大村益次郎が、寿命をまっとうしていたとしたら、その後の帝国陸軍は、どのような格好になっていたのか。