四境戦争で、長州藩は、幕府軍を敗北させ、幕府の威信は、失墜します。
京都では、薩摩藩が、幕府に対して政治的攻勢をかけますが、徳川宗家を継いだ徳川慶喜は、その薩摩藩の政治力を圧倒。
そして、第15代将軍に就任。
政治的に、幕府を追い込むことは困難とみた薩摩藩は、武力討幕を決意します。
以下、この本から。私見も交えながら。
四境戦争は、長州藩の勝利に終わる。
慶応3年(1867)9月25日、薩摩藩、長州藩、芸州藩、三藩の取り決めにより、長州藩は、京都への出兵のため、兵士を三田尻に集結させる。
しかし、薩摩藩では、未だ、慎重論が根強く、また、芸州藩も、出兵を取りやめ。
10月13日、薩摩藩の大久保利通や、岩倉具視の手動で、「討幕の密勅」が、薩摩藩に下る。
10月14日、京都では、武力討幕派の先手を打ち、将軍、徳川慶喜は、二条城で「大政奉還」を表明する。
同日、長州藩にも「討幕の密勅」が下る。
さて、この「討幕の密勅」ですが、どうも、「偽勅」のようですね。
つまり、天皇が出したものではない。
岩倉具視や、薩摩藩らによる「偽造の勅書」ということになる。
実は、孝明天皇は、「攘夷」という面では、強い意志を持っていたものの、根本的には、「親幕府」の政治姿勢で、京都守護職である会津藩主、松平容保に、絶大な信頼を置いていたようです。
しかし、慶応2年(1866)12月25日、孝明天皇は、突如として、亡くなってしまう。
この、あまりに都合の良い「親幕府」の孝明天皇の死は、岩倉具視による毒殺ではないかという説もあるようですね。
果たして、真実なのかどうか。
さて、薩摩藩、芸州藩の出兵が中止となり、長州藩もまた、一時、出兵を停止します。
実は、長州藩が、京都への出兵を決めた時、大村益次郎は、これに反対をしていた。
理由としては、やはり、圧倒的に、質、量で勝る幕府歩兵隊を相手に、勝利をする見込みが少ないという判断から。
そして、10月27日、益次郎は、御用所本役から、助役に降格し、左遷される。
11月18日、薩摩藩兵と共に、海路、三田尻に入った薩摩藩主、島津忠義と、長州藩の世子、毛利広封が、木戸貫治(孝允)、山田顕義らと共に、会議。上洛の方針が決まる。
12月9日、京都で「小御所会議」が開かれる。徳川慶喜の「辞官納地」が決定。
二条城の徳川慶喜は、会津藩、桑名藩、旧幕府軍の暴発を懸念し、大坂城に下る。
大村益次郎は、この徳川慶喜の大坂下向を、大坂城に籠城するつもりではないかと懸念していたよう。
旧幕府軍の大軍に、堅固な大坂城に籠られては、とても、薩摩藩、長州藩らの兵力で、攻め落とすこは出来ない。
そこで、薩摩藩は、旧幕府の挑発に出ます。
それが、江戸で、暴れた、いわゆる「薩摩強盗」と呼ばれるもの。
12月25日、江戸で、薩摩藩邸が、市中見廻りを担当していた荘内藩や、幕府の歩兵によって、焼き討ちされる。
薩摩藩による旧幕府の挑発に乗ってしまったということ。
慶応4年(1868)1月1日、江戸での薩摩藩邸の焼き討ちを聞いた大坂城の旧幕府軍は、京都に向けて、進軍を開始。
しかし、1月3日、「鳥羽伏見の戦い」で、旧幕府軍は、薩摩軍、長州軍に敗北する。
1月7日、大村益次郎は、御用所本役に復帰。新政府軍は、江戸への進行を決定する。
大津に派遣されていた参与、橋本実梁と、助役、柳原前光が、東海道鎮撫軍となり、参謀に長州藩士の木梨精一郎、薩摩藩士の海江田信義が参謀となる。
1月4日、参与、西園寺公望が、山陰道鎮撫総督に任命される。
1月11日、軍事参謀の四條隆調が、中国四国征討総督に任命される。
新政府は、西国を、支配下に置く。
1月9日、長州藩は、新政府の命令で、世子、毛利広封を上洛させることを決定。
1月14日、大村益次郎、木戸孝允らも、毛利広封に随行して、上洛を命じられる。
1月23日、一行は、大坂に到着。
2月、東山道鎮撫総督に、岩倉具貞が任命され、参謀に、土佐藩士、板垣退助、薩摩藩士、伊地知正治が任命される。
奥羽鎮撫総督府の総督に沢為量が任命され、参謀に、品川弥二郎が任命される。
2月9日、東征大総督府が設置され、大総督に有栖川宮、参謀に、薩摩藩士、西郷隆盛、宇和島藩士、林玖十郎が任命される。
2月20日、軍防事務局が設置される。
2月26日、奥羽鎮撫総督の沢が、九條道孝と交代。下参謀に世良修蔵、大山綱良が任命される。
4月11日、徳川慶喜は、水戸で隠居することが決まり、江戸城は、無血開城。
4月19日、旧幕府脱走兵の大鳥軍の別働隊が、宇都宮城を落とす。
4月下旬、東征大総督府軍監として江戸に入っていた肥前藩士の江藤新平が、京都に戻る。
江戸の不穏な内情を岩倉具視に伝えると共に、早急な対策が必要だと意見書を提出。
大村益次郎もまた、江戸の情勢には、危機を感じていた。
江戸の大総督府の西郷隆盛らは、民政に対して無策だと批判をしている。
新政府は、江戸の町を跋扈していた彰義隊を討伐する方針を決定。
4月27日、その責任者として、大村益次郎を、江戸に送ることに決める。
大村益次郎は、軍防事務局判事に昇進。
閏4月1日、大村益次郎は、江戸に向けて、大坂を出港する。
閏4月4日、大村益次郎は、江戸に到着。
閏4月5日、江戸城に登城し、有栖川宮と面会。評議に参加をすることになる。
閏4月10日、新政府は、三條実美を、関東大監察に任命し、江戸に派遣することを決定。
閏4月24日、三條実美は、海路、江戸に入る。
閏4月21日、新政府の官度改革により、大村益次郎は、軍務官の判事に任命される。
閏4月29日、田安亀之助に徳川家の相続を認め、江戸に鎮将府を設置。
この頃、大村益次郎は、「江城日誌」という新聞を、江戸で発行しています。
これは、「中外新聞」「江湖新聞」といった、佐幕系の新聞に対抗し、新政府の情報を江戸市民に広報するためのもの。
大村益次郎は、彰義隊を討伐するにあたって、軍資金の調達に、苦心をしていました。
これは、江戸の大村益次郎に限らず、新政府自体が、非常な、財政難に苦しんでいた。
江戸城にあった宝物を鋳つぶして金に換えたり、外国に、借金を申し込んだりしていたようですが、そこに、外国事務局判事で、参与である大隈重信が、江戸に下って来ます。
大隈は、軍艦「ストーンウォール」を手に入れようと、奔走をしていたのですが、大隈は、この軍艦「ストーンウォール」を購入するため、大坂で商人たちから25万両を集めていた。
5月6日、江戸に入った大隈は、この25万両を、彰義隊討伐の資金とすることを申し出る。
しかし、益次郎は「まずは、軍艦を手に入れるべき」と、大隈の申し出を拒否する。これを受けて、大隈は、軍艦の購入の談判を、アメリカと行いますが、アメリカは、「局外中立」を盾に、大隈の交渉を拒否。そこで、改めて、25万両を、彰義隊討伐に回すことになる。
大村益次郎は、彰義隊が、新政府軍と一戦、交えた後、会津に移動すると考えていたようです。
実は、大総督府の中には、この彰義隊征伐に反対する人たちも居た。
一つは、「彰義隊を討伐するには、新政府軍の兵士の数が少なすぎる」という意見。
そして、一つは、「討伐をされた彰義隊の残党が、会津方面に向かい、今市で旧幕府軍と対峙をしていた板垣退助らの新政府軍の背後を襲う格好になるのではないか」という意見。
しかし、益次郎は、これらの意見を抑え、彰義隊討伐に向けて、行動を開始する。
5月7日、益次郎は、田安家による江戸市中取締の任を解き、新政府が、これを行うこととする。
これは、彰義隊討伐に向けて、彰義隊側からの奇襲攻撃を警戒する意味もあったよう。
さて、彰義隊討伐のために江戸に入り、活動を始めた大村益次郎は、薩摩藩士の海江田信義と、激しく、対立をしたことで有名です。
江戸の新政府軍の指揮系統の、自らへの一本化を目指す大村益次郎に対して、参謀の海江田信義は、独自の判断による行動が多く、大村益次郎は、それを問題視していたようです。
また、海江田信義は、旧幕府の人たちに同情的で、彰義隊の討伐も反対の立場だった。
この海江田信義、大村益次郎の対立には、様々な逸話があり、この一連の逸話が、大村益次郎が、「傍若無人で、人間関係に無頓着だった」というイメージを生む一因になっているように思います。
しかし、この時の、海江田信義、大村益次郎の対立は、それぞれの権限の解釈や、江戸の現状への解釈、また、旧幕府、徳川家への認識の違いなどから来るもので、大村益次郎の人間性とは、あまり、関係がないもの。
これには、海江田信義が「武士」であり、大村益次郎が「武士」ではなかったということも、原因になっているのではないかと個人的には、思うところです。
5月7日、彰義隊討伐を巡る軍議でも、大村益次郎と海江田信義は、激論を交わして、激しく対立。しかし、西郷隆盛が、大村益次郎に賛同したことで、彰義隊の討伐が決定。
同日、大村益次郎は、従五位に叙せられる。
5月11日、益次郎は、江戸府判事兼帯を命じられ、官位、職掌の面からも、関東鎮撫の実質的な責任者となる。
5月12日、大総督の有栖川宮は、寛永寺の輪王寺宮に使者を送り、面会を求めるが、拒否される。
5月13日、彰義隊から新政府の最後通牒に対する拒否が、交渉役だった山岡鉄舟を通じて、伝えられる。
彰義隊の立てこもる寛永寺は、上野台地の南端にあり、いくつもの伽藍が建ち並び、36坊の子院や、徳川将軍家の菩提寺を兼ねた歴代将軍の霊廟もあり、あたかも城郭都市街のような様相を呈していた。
大村益次郎は、この寛永寺に籠る彰義隊を壊滅させるための戦略を立てる。
南方(正面)、湯島から黒門にかけて。薩摩藩、肥後藩、因州藩。ここが、彰義隊攻撃の主力軍となる。
西方(側面)、本郷台方面。肥前藩、備前藩、尾張藩、津藩、佐土原藩。ここには、砲13門が設置され、寛永寺の彰義隊への砲撃を担う。
ちなみに、この方面に配置された肥前藩の「アームストロング砲」は有名ですが、必ずしも、「アームストロング砲」だけが、特別、役に立ったという訳ではなく、様々な種類の大砲が使用され、効果を与えたようです。
北西(背面)、団子坂方面。長州藩、大村藩、佐土原藩。機動力を生かした、散会、遊撃戦を展開する。
周辺値域には、敗北、逃亡する彰義隊の残党を殲滅するための部隊を配置。
大村益次郎の戦略は、黒門口の薩摩藩兵を中心とした主力軍が、彰義隊の主力を引きつけて戦闘。
そして、本郷台方面に配置された砲隊が、不忍池を越えて、薩摩藩兵らと戦闘をする彰義隊を砲撃し、粉砕する。
寛永寺の北西、団子坂方面の長州軍は、谷中の天王寺方面に進出し、寛永寺の背後を封鎖。
寛永寺の東は、崖なので、これで、完全包囲された彰義隊は、敗北し、北方に向けて敗走をするはず。
薩摩藩兵らに負われて、北方に逃げて来た彰義隊の敗残兵を、長州藩を始め、他の伏兵たちが、殲滅するという戦略です。
この大村益次郎の戦略は、完璧に遂行され、彰義隊は、たった半日で、壊滅に追い込まれたと評価は高い。
しかし、必ずしも、益次郎の戦略通りに、戦闘の経緯が進んだ訳ではないようです。
さて、益次郎の戦略通りならば、黒門口の薩摩藩兵は、敗走する彰義隊を追って黒門を突破し、伽藍を焼き払いながら、北上。
北方で、待ち受ける長州藩兵は、正面の薩摩藩兵と協力して、敗走する彰義隊を殲滅。
更に、包囲を突破した彰義隊の敗残兵を、周辺値域の市中に配置した、新政府軍の藩兵が、捕縛、追討する。
更に、益次郎は、江戸周辺の広範囲に新政府軍を配置し、彰義隊を、完全に、壊滅させる。と、言う経緯になる。
さて、実際の戦闘は、どう推移したのか。
当時の戦況を記した、西郷隆盛の書状から。
5月15日、午前6時過ぎ、彰義隊への攻撃命令が出て、薩摩藩兵は、湯島に向かう。
しばらく、湯島で滞陣。
本郷から、横合いに向かう長州藩兵の攻撃を待っていたところ、砲撃の音が始まる。
確認をすると、ある部隊が、黒門口への攻撃を開始したということ。
黒門口での戦闘が始まったが、本郷の長州藩兵が来ない。
しばらく待っていたところ、肥前藩兵の砲撃が始まるが、やはり、長州藩兵は来ない。
彰義隊から、薩摩藩兵の後方に、火矢が打ち込まれ、火災が発生。
火災に追われた薩摩藩兵は、黒門口を、正面から突破する。
午前6時から始まった戦闘は、午後5時頃に終了。
薩摩藩、津藩、因州藩らが、黒門口から突入したが、彰義隊と戦闘中にも、肥後藩兵が、大砲を撃ち込んだため、味方に、被害が出る。
谷中での戦闘は、激戦となり、長州藩、大村藩、佐土原藩らの藩兵は、上野方面に来ることが出来なかった。
そのため、長州藩兵らは、西郷の期待していた場所とは、違う場所に居たため、共同作戦が取れなかった。
この西郷隆盛の書状から分かることは、団子坂から谷中、天王寺方面に向かった長州藩兵らは、前夜からの雨で、機動力を発揮することが出来ず、また、大砲の数の不足で、谷中門を突破することが出来なかった。
また、本郷方面からの大砲の砲撃は、小高い丘と、その上の巨木が障害となり、目標を捕らえることが出来ず、効果的な砲撃が出来なかったよう。
そのため、彰義隊が、予想外に、激しく、抵抗することになってしまった。
しかし、黒門口を、因州藩兵が、側面から突破したこと。
更に、本郷からの大砲による砲撃が、何とか、敵を捕らえ始めたことで、彰義隊を打ち破ることに成功した。
長州藩兵らが、谷中方面を抑えることが出来なかったため、彰義隊の敗残兵は、北方に脱出することになる。
この経緯から、必ずしも、大村益次郎の戦略通りに、作戦が進んだ訳ではなかったことが、分かります。
しかし、これは、仕方が無いことでしょう。
戦闘の現状が、机上の作戦通りには行かないのは、ある意味、当然ではないですかね。
5月22日、大総督の有栖川宮は、大村益次郎、西郷隆盛、寺島秋介の三人を呼び、彰義隊討伐の軍功を賞する。
6月4日、大村益次郎は、従四位に叙せられ、江戸鎮台府民政会計掛に任命される。
6月25日、木戸孝允が、京都から江戸に入る。
木戸孝允、大久保利通、大村益次郎、肥前藩士の大木喬任らは、連日、集まり、今後の会議を重ねる。
さて、東北地方の情勢。
閏4月20日、世良修蔵が、暗殺される。
5月1日、会津藩の守る白河城を、新政府軍の東山道軍が奪取。
5月2日、長岡藩の河井継之助が、新政府軍と、小千谷で会談。中立を訴える。
5月3日、奥羽列藩同盟が結成される。
越後の諸藩も組み入れられ、奥羽越列藩同盟となる。
5月19日、彰義隊の討伐を終え、東山道軍は、大総督の直下に再編される。
同日、新政府軍が、越後国、長岡城を奪取。
大村益次郎は、江戸で、新政府軍を統括することになりましたが、白河を攻撃する新政府軍との間に、戦略の齟齬が生まれる。
新政府軍の資金不足もあり、白河口を攻略する新政府軍には、補給を自前で行うよう、6月1日、通告が出されますが、これに諸藩が、猛反発。
しかし、大村益次郎は、白河口からの攻略は、重視していなかったようで、これに、取り合わなかった。
6月13日、新政府軍は、常陸国平潟に上陸。
7月3日、大総督府は、平潟口からの仙台攻略に取りかかる。
7月13日、平潟から北上した新政府軍が、相馬中村藩の磐城平城を落とす。
7月29日、新政府軍、新潟港を占領。
同日、越後方面の同盟軍は、新政府軍に敗北し、栃尾方面に退却。
8月3日、新政府は、仙台藩、米沢藩の追討令を出す。
7月、大村益次郎が反対していた白河口への増援、補給を、三條実美らが決定。
板垣退助の土佐藩兵、その他、薩摩藩兵、長州藩兵らが、白河口に入る。
7月29日、新政府軍、二本松城を落とす。
この頃、米沢藩士、宮島誠一郎が、米沢藩の降伏の周旋と、寛大な処置を求めて、京都や東京で奔走していた。
宮島誠一郎と面会し、話を聞いた木戸孝允は、使者を通じて、益次郎に判断を求める。
益次郎は「新政府軍は、戦闘中で、その中、宮島を送ると、味方の士気に関わる。正式な使者は送れないので、板垣に事情を説明した上で、あなたの家来を送ってくれ」と返答。
8月24日、米沢藩は、恭順の藩論に決まり、9月4日、降伏する。
9月10日、平潟方面から北上した新政府軍が、仙台藩領内に入る。
新政府軍に敗れた仙台藩では、恭順派が主流となり、新政府軍の参謀、津田信弘に、降伏についての周旋を依頼。津田は、仙台藩の言い分を、東京の益次郎に送る。
しかし、益次郎は、この周旋を認めず、木戸孝允にも、中途半端な降伏は認めないように求める。
そして、周旋が認められない中で、仙台藩は、降伏する。
米沢藩、仙台藩が降伏し、他の列藩同盟の諸藩も降伏をして行く中で、会津藩の攻略が始まる。
大村益次郎の戦略としては、会津藩と直接、激突するのを避け、周辺値域を制圧し、会津藩を孤立させて、降伏に追い込もうという構想だった。
しかし、最前線で指揮を取る、板垣退助、伊地知正治らの戦略は、違っていた。
彼らは、会津藩を直接、攻撃し、降伏させるため、作戦を開始する。
8月20日、二本松を出陣した新政府軍は、母成峠を突破し、23日、会津藩の城下に入る。
越後口、日光口からも、新政府軍が、次々と、会津藩の城下に入り、会津若松城は、完全包囲されることに。
9月14日、新政府軍は、会津若松城に総攻撃を開始。
9月22日、会津藩は、米沢藩の説得を受け、新政府軍に降伏する。
大村益次郎は、東京に凱旋をして来た板垣退助らの戦略を絶賛し、褒め称えたそうです。
会津藩降伏の知らせを受けた大村益次郎は、降伏諸藩の敗戦処理を急ぐため、天皇の東京行幸に供俸していた木戸孝允の元に、軍務官権判事の香川敬三を派遣し、奥州の状況を説明し、処置を急ぐことを強く求める。
大村益次郎、木戸孝允は、敗戦、降伏によって起こった、東北の諸藩の混乱と、民衆の被害を、出来るだけ、防ぎ、速やかに、安定した生活が出来るように尽力をしていた。
それは、江戸で起こった彰義隊のような混乱を避けるため。
10月2日、大村益次郎は、東北平定の功績により、金300両と天盃を下賜される。